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札幌地方裁判所 昭和51年(ワ)881号 判決 1987年8月24日

原告 甲野一郎

<ほか八名>

右原告ら訴訟代理人弁護士 髙野国雄

同 新川晴美

被告 小樽市

右代表者市長 志村和雄

<ほか二名>

右被告ら訴訟代理人弁護士 黒木俊郎

主文

一  原告甲野一郎、原告甲野太郎及び原告甲野花子の被告小樽市に対する各請求、原告乙山秋夫、原告乙山春夫及び原告乙山夏子の被告横尾和夫に対する各請求並びに原告丙川梅子、原告丙川松夫及び原告丙川竹子の被告社団法人全国社会保険協会連合会に対する各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告小樽市は、原告甲野一郎に対し金四六二〇万円、原告甲野太郎及び原告甲野花子に対し各金五五〇万円並びにこれらの各金員に対する昭和五一年七月一七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告横尾和夫は、原告乙山秋夫に対し金四五一〇万円、原告乙山春夫及び原告乙山夏子に対し各金五五〇万円並びにこれらの各金員に対する昭和五一年七月一七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被告社団法人全国社会保険協会連合会は、原告丙川梅子に対し金四五一〇万円、原告丙川松夫及び原告丙川竹子に対し各金五五〇万円並びにこれらの各金員に対する昭和五一年七月一七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は、被告らの負担とする。

5  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

被告ら共通主文第一、二項と同旨の判決

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)は、同父甲野太郎(以下「原告太郎」という。)及び同母甲野花子(以下「原告花子」という。)の長男である。

(二) 原告乙山秋夫(以下「原告秋夫」という。)は、同父乙山春夫(以下「原告春夫」という。)及び同母乙山夏子(以下「原告夏子」という。)の長男である。

(三) 原告丙川梅子(以下「原告梅子」という。)は、同父丙川松夫(以下「原告松夫」という。)及び同母丙川竹子(以下「原告竹子」という。)の二女である。

(四) 被告小樽市は、同市内において小樽市立病院を経営している。

(五) 被告横尾和夫(以下「被告横尾」という。)は、札幌市内において横尾病院の名称で産科・婦人科の病院を経営している。

(六) 被告社団法人全国社会保険協会連合会(以下「被告全社連」という。)は、札幌市内において北海道社会保険中央病院を経営している。

2  診療契約の成立

(一) 原告花子は、昭和四五年五月一九日、出産のため小樽市立病院に入院し、同月二七日在胎三二週で原告一郎を出産したところ、原告一郎、原告太郎及び原告花子は、そのころ、被告小樽市との間において、原告一郎の出産介護、診療、保育を依頼する旨の診療契約を締結した。

(二) 原告夏子は、昭和四五年五月原告秋夫を妊娠して以来、横尾病院において被告横尾の診察、指導を受け、同年一二月二五日には出産のため同病院に入院し、同日在胎二八週で原告秋夫を出産したところ、原告秋夫、原告春夫及び原告夏子は、そのころ、被告横尾の間において、原告秋夫の出産介護、診療、保育を依頼する旨の診療契約を締結した。

(三) 原告梅子は、昭和四七年五月二二日に、在胎三一週で出生し、同日、北海道社会保険中央病院に入院したが、その際、原告梅子、原告松夫及び原告竹子は、被告全社連の間において、原告梅子の保育を依頼する旨の診療契約を締結した。

3  原告一郎、原告秋夫及び原告梅子の視力障害の発生

(一) 原告一郎は、昭和四五年五月二七日に小樽市立病院で出生した。在胎期間三二週、生下時体重が一九八〇グラムの未熟児であった。同日から同年六月三〇日までの三五日間、保育器内に収容されていたが、その間、五月二七日から六月二三日までの二八日間、毎分三リットルの酸素投与を受けた。同年七月二三日、体重三四〇〇グラムで退院した。

原告花子は、原告一郎が保育器から出された同年六月下旬ころ、原告一郎の目の異常に気付いた。同年一〇月二八日、国立小児病院の医師植村恭夫により未熟児網膜症と診断された。原告一郎の視力は、左眼が失明(視力〇)であり、右眼が視力〇・〇二で、いずれも矯正不能である。

(二) 原告秋夫は、昭和四五年一二月二五日に横尾病院において出生した。在胎期間二八週、生下時体重が一三〇〇グラムの未熟児であった。同日から昭和四六年二月二五日までの六三日間、保育器内に収容されていたが、その間、昭和四五年一二月二五日から昭和四六年一月二日までの九日間、酸素投与を受けた。投与量は、当初毎分三リットルであった。原告秋夫は、昭和四六年三月九日、体重二八五〇グラムで退院した。

原告春夫及び原告夏子は、同年二月下旬ころ、原告秋夫の目の異常に気付いた。同年三月二七日、国立小児病院の医師植村恭夫により未熟児網膜症と診断された。原告秋夫の視力は左右とも〇で明暗弁程度である。

(三) 原告梅子は、昭和四七年五月二二日に札幌市内のにいだ産婦人科で出生した。在胎期間三一週、生下時体重が一三〇〇グラムの未熟児であった。同日、北海道社会保険中央病院に転院した。同日から同年七月四日までの四四日間、保育器内に収容されていた。同年五月二二日から同年六月二日までの一二日間、酸素投与を受けた。投与量は当初毎分二リットルであった。同年五月二三日には毎分一リットルにされた。更に同月二七日からは毎分〇・五リットルになった。原告梅子は、同年七月二三日、体重二八六〇グラムで退院した。

原告竹子は、同月二五日ころ、原告梅子の目の異常に気付いた。同年一一月二一日、北海道社会保険中央病院の眼科で検査を受けた。全盲であると診断された。昭和四八年三月五日には、札幌医科大学附属病院の医師相沢芙束により未熟児網膜症と診断された。原告梅子の視力は左右とも〇(失明)であり、明暗弁程度である。

4  責任原因

(一) 医師の一般的注意義務

医師は、人の生命及び健康を管理するという重大な業務に従事するものであるから、その業務の性質に照らし、起りうる危険を未然に防止するため、診療契約上及び条理上、当時の一般的医学水準に適合する医学水準及び医学的知識を常に保持し、これに基づいた適切な診療をなすべき高度の注意義務を負う。

(二) 本件発生当時の未熟児網膜症に関する一般的医学水準

(1) 未熟児網膜症

未熟児網膜症(以下「本症」という。)は、保育器による未熟児保育の際の酸素の過剰な供給が原因となって発症する眼の疾患であって、未熟児の水晶体後部に網膜血管の異常増殖を生じ、最悪の場合には、網膜全剥離による失明ないし強度の視力障害を残す。

(2) 本症の原因

本症の原因として、かつて、ビタミンE欠乏説などがあげられたが、一九五一年オーストラリアのキャンベルが酸素過剰説を提唱し、アシュトン、バッツらの動物実験によって、この説が裏付けられ、その後、疫学的、臨床的研究によって、酸素過剰説が確認されるに至った。わが国においても、これら諸外国の経験が紹介され、また多くの臨床的研究に基づいて酸素療法が本症の発生に重要な係わりをもつとする点には異論がない。酸素を与えなくても本症が発生する場合もあるが、そのようなケースは極めて少数であり、かつ、酸素以外のいかなる原因によってそうなるかは未だ立証されておらず、酸素が発生原因であることを否定する論拠にはなりえない。また、本症の発生機序の細部については、未解明の部分があるとしても、現在では、酸素との因果関係を否定する学説はなく、訴訟上酸素との因果関係を認める障害とはならない。

(3) 本症の診断基準と臨床経過

厚生省は、昭和四九年に本症の治療研究者一一名による研究班(厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班)を作って当時における研究成果をとりまとめ本症の診断基準と治療法を統一し、昭和五〇年に発表した。

この発表は、従来の術者の各研究を統一したもので、新たな研究成果を挙げたものではなく、従来の研究成果を公的に確認したにすぎないものである。

この発表による統一診断基準は、次のとおりであるが、Ⅰ型、Ⅱ型ともに従来の術者による診断基準等と大差はない(「現時点における研究班員の平均的治療方法である」と同報告も明示している。)ものとなっている。

(ア) 活動期の診断基準と臨床経過の分類

両眼立体像鏡又はポンノスコープを用い散瞳下に検査する。

本症を予後の点よりⅠ型とⅡ型に大別する。

Ⅰ型は主として耳側周辺に、増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内の滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型である。

Ⅱ型は主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイメディア(硝子体混濁)のためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離を起すことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型である。

(イ) Ⅰ型の臨床経過分類

1期 血管新生期

周辺、ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないが軽度の血管の迂曲、怒張を認める。

2期 境界線形成期

周辺、ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれにより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲、怒張を認める。

3期 硝子体内滲出と増殖期

硝子体内滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲、怒張を認めることもある。

4期 網膜剥離期

明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の眼局性剥離から全周剥離まで、範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

(ウ) Ⅱ型

極小未熟児の未熟性の強い眼に起り、初発症状は血管新生が後極より起り、耳側のみならず、鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広くその領域はヘイジイメディアで隠されていることが多い。後極部の血管の迂曲、怒張も著明となり、滲出性変化も強く起り、Ⅰ型のごとき段階的経過をとることも少なく比較的急速に網膜剥離にと進む。

(エ) 混合型、Ⅰ型Ⅱ型の混合したもの

自然寛解はⅠ型の2期までで停止した場合には、視力に影響を及ぼすような不可逆性変化を残すことはない。3期においても自然寛解は起り、牽引乳頭に至らずに治癒するものがあるが牽引乳頭、襞形成を残し弱視となるもの、頻度は少ないが剥離を起し失明に至るものがある。

(4) 本症の予防及び治療方法

(ア) 全身管理

人間の身体は各臓器、器官、例えば心臓や肺や脳が個々バラバラに働いているのではなく、すべて相互に影響を及ぼし合いながら、脳と心臓を中心に一つの生命体として機能しているのである。このことは低出生体重児といえども同じである。それ故、低出生体重児の生命活動総体を全体として良好に保つことによって、自然の成長発育と治癒の過程への好条件をつくり出し、その生命予後を良好にし、合併症、後遺症を少なくするのである。その方法が全身管理である。全身状態が悪ければ、種々の疾病にかかりやすく、合併症が起きやすく、また回復力も悪くなり、それら疾病や合併症が治り難く、治っても後遺症が残りやすい。全身状態が良ければ、疾病や合併症の発症も少なくなり、回復力も旺盛で自然の治癒機転も働きやすく、後遺症も少ない。すなわち、全身管理を適切に行うことにより、悪循環に陥るのを防ぐことが大切である。

低出生体重児の保育の第一は、母親の胎内にいた時と同じ発育を保証することで、全身状態を良好に保ち、種々の疾病、合併症を予防することである。

第二は、生じて来た種々の疾病、合併症を早期に発見し、適切な治療を施すとともに、全身状態を良好に保ち、自然の治癒力が有効に働くようにすることである。

全身管理の内容は

呼吸と循環の管理(酸素管理を含む。)

体温管理

保育環境の整備

栄養管理(代謝及び体液管理を含む。)

感染予防

疾病及び合併症の予防と早期発見、早期治療

である。

本症発症の問題を論ずる場合、酸素管理を中心とした呼吸管理とか眼科的管理とかをそれぞれ切り離して単独で論議するのは当をえず、全身管理はどうであったか、全身状態はどうであったかを見るなかで、その一部として呼吸管理や眼科的管理はどうであったかを見て、総合的に判断することが求められる。

そもそも、本症は自然治癒率が高く、たとえ発症したとしても全身管理が良く、良好な全身状態を保てば、自然治癒して失明に至らないが、全身管理が悪く、全身状態が不良であると自然治癒力が働かずに悪化させ、失明に至らせてしまうことが多い。そしてその全身管理の中に呼吸管理も含まれるのであり、いくら全身状態が良くても呼吸管理が悪ければ、やはり本症を発症増悪させてしまうのは当然である。

右のことから明らかなように、低出生体重児の保育の基本は全身管理であり、保温、保湿、栄養補給、感染防止などの十分な一般的養護、すなわち全身管理なくしては呼吸管理はありえず、更に十分な呼吸管理なくしては、脳、眼、肺などへの後遺症のない生存、発育はありえないのである。全身管理はこのように一つには発症防止ないし自然治癒の面で、もう一面では早期発見、早期転医、早期治療のために主治医のとるべき不可欠の処置である。

(イ) 酸素管理

全身管理の中でも呼吸管理、とりわけ酸素管理は本症との関係で極めて重要である。酸素が本症の発生原因といわれ出して以来、わが国でも、昭和三〇年ころから厳格な酸素管理の重要性が唱えられ、未熟児保育の担当医に警告されてきた。昭和四五年当時の酸素管理の基本は、次のようなものであり、産科、小児科を問わず、未熟児保育に当たる医師の常識となっていた。

(a) 医学的な適応のある場合に限って酸素を使用する。すなわち一般には、全身チアノーゼのある場合(手足のチアノーゼだけでは、酸素投与以外の適切な手段が多数存するため、酸素使用の適応とはならない。)、高度な呼吸困難状態にある場合である。

(b) 酸素濃度は、症状を好転させるに足りる最低濃度とする。少なくとも、四〇パーセントより高くしない。

(c) 症状が好転したら速やかに酸素濃度を下げまたは中止する。このために症状を頻回に観察する。

(d) 保育器内の児の頭部近くの酸素濃度をできるだけ頻回(四時間毎位)に測定する。

(ウ) 眼底検査

未熟児に対する眼底検査の重要性は、第一に、未熟児網膜症の発症の危険及びこれによる失明の危険を予知し、また、早期に発見することに最も重要な意義と役割がある。未熟児に対する眼底検査を確実に行うことによって、網膜症の発生を知り、その進行経過を観察し、可能性のある時期に適切な治療を施し、失明という最悪の事態を防ぐことができるからである。

更に、第二に、網膜症発見のためばかりでなく、一日も早く未熟児の眼底状態を把握して、眼の情報を未熟児担当医に提供し、もって全身管理、酸素療法の参考資料とさせ、担当医をして未熟児の固体差に着目して具体的理想的管理をなさしめるという目的をもっている。

本症の早期発見、早期治療のための定期的眼底検査の必要性(生後一週間位から週一回数か月にわたり行うこと)は、わが国でも昭和三〇年代から、産科、小児科、眼科の各界で、繰り返し指摘され、とくに植村恭夫らの啓蒙により、その必要性の認識が未熟児保育に当る医師の常識となり、昭和四二年光凝固法という本症の画期的な治療法の開発と相まって、定期的眼底検査が一層普及した。遅くとも本件各診療当時には、眼底検査の必要性に関する知見は、確立していたといえる。

(エ) 光凝固法による治療

光凝固法は、もともと成人の網膜剥離、特に糖尿病性の網膜剥離治療のためドイツのマイヤーシュベッケラート教授が開発したもので、昭和三七年ころから日本でも用いられ始めた。この方法は、レンズで光源を集中させた熱で網膜血管を焼灼し、網膜血管の閉塞によって起った異常な血管増殖を促す因子を破壊し網膜血管の正常な発育を促すものであり、網膜血管の破壊という点では成人の場合も未熟児の場合も同じであり、成人の場合はすでに出来上っている網膜血管に病変が起り、不足する酸素を補うため新たな増殖が起るのを対象とするが、未熟児の場合は発達途上の血管を対象とするという違いがあるのみで、その治療の原理には差異はない。

未熟児網膜症に対する光凝固法は、昭和四一年以来なされてきているが、その診断基準及び実際の治療法については、術者によって多少の差異があった。永田医師は、当初はオーエンスの網膜活動の経過基準にしたがって治療を行っていたが、児によって進行経過に相違の存する場合には治療時期に変更を加えることもあり、同様のことは大島健司助教授についてもあった。しかし、術者に一致していたことは、オーエンスの分類でいえば活動期Ⅲ期を治療適期として把えていたことである。この時期の特徴は、境界線形成時期を経て硝子体内に血管が滲出し増殖を開始するところにあり、この状態が進行すると網膜剥離に至る可能性が強いと考えられていたからである。

本症に対する光凝固法の有効性は、昭和四一年以来実施された症例件数及びその成功例の山積により確立されていたもので、遅くとも昭和四六年には国公立病院をはじめ私立病院の一部においては有効性の確立だけでなく、その治療も日常化しており、その他の病院の医師も自ら治療はしない場合でも光凝固法の有効性の知識をもっていてこれらの国公立病院等に移送措置を講じていたものである。

すなわち、まず永田誠医師らは、昭和四一年八月から昭和四六年七月までの収容児のうち本症の二五症例に光凝固法を施行して治癒させた。

名鉄病院眼科の田辺吉彦医師らは昭和四四年三月及び四月に本症の四症例に光凝固法を実施して成功した。関西医科大学の塚原勇医師らは昭和四四年一一月から昭和四八年三月までに本症の四五症例に光凝固法を施行した。大阪市立小児保健センターでは昭和四四、五年から昭和五三年までに私立北野病院、松下電器健康保険組合病院に本症の四、五〇例を光凝固法施術のために転院させた。兵庫県立こども病院では、昭和四五年五月から昭和四六年八月までに、未熟児一〇八名の眼底検査を行い、一〇名に光凝固法を施術してうち八名について成功している。九州大学附属病院及び国立福岡中央病院では昭和四五年の一年間に本症の二三症例に光凝固法を施術した。松戸市立病院でも丹羽医師が本症の五症例に光凝固法を施術して成功した。永田誠医師は更に昭和四五年一一月の学会誌に本症の六症例に対する光凝固法の施術の成功例を報告している。名鉄病院の田辺吉彦医師は昭和四五年にも本症の一四症例に光凝固法を施術して成功した。そのほか、同年中には県立広島病院、広島大学、愛媛県立中央病院でも本症に光凝固法を施術して成功し、鳥取大学医学部眼科教室でも本症に対する光凝固法の成功例があり、国立大村病院未熟児センターでも同様の成功例があるなど全国各地の病院に光凝固法は普及していた。昭和四六年・昭和四七年ころには、国立大村病院の本多繁昭医師、県立広島病院の野間昌博医師、田辺吉彦医師などが数多くの本症の症例に光凝固法を施行し、東北大学医学部未熟児室では、光凝固法と治療の機序原理を同じくする冷凍凝固法が本症に施術されてその成功例が報告された。永田誠医師らは昭和四六年にも本症の一〇症例に光凝固法を施行した。また、兵庫県立尼崎病院においても昭和四六年一〇月本症の症例に光凝固法を施術している。神戸市内の海星病院では、昭和四六年四月出生の未熟児に対して光凝固法施術のため県立こども病院に転院の措置をとっている。同じく神戸市内の医療法人パルモア病院では、昭和四六年五月二五日出生の未熟児に対して県立こども病院に転院措置をとり、同年八月一〇日光凝固法の施術を受けさせた。神戸市内の社会保険中央病院でも、昭和四七年八月六日出生の未熟児に対して、同年九月二二日県立こども病院に転院の措置をとり、光凝固法の施術を受けさせている。北海道においては、北大附属病院の杉浦清治教授とその眼科教室員の医師達が、昭和四五年一一月に産科との間で定期的眼底検査の委嘱方式を決め、昭和四六年には前記の他病院の治療例から光凝固法は本症に有効であり、適期の児がいれば直ちに同法を実施することとし、第一症例として同年一一月に光凝固法を実施した。もちろん、同病院では未熟児の眼底検査は可能であった。また、右当時には、函館や網走など道内各地においても眼底検査可能の開業医もおり、当然、本症及び光凝固法の知識を有していたものである。

以上のとおり、昭和四六年までの治療実施例とその成功症例は膨大なものであり、その治療法は一地方の少数病院にとどまらず全国の中心的医療機関にも受けいれられていて、もはや追試の段階をこえて広く伝播していたものである。そして、この治療法の存在と有効性はすでに多数の文献によって全国の開業医にまで行き届いていたもので、右昭和四六年当時にはこれを知らないこと自体異例ともいうべき状態にあった。

因みに、昭和五〇年に発表された前記厚生省研究班の報告においても、本症に対する光凝固法の有効性が確認されている。すなわち、右報告の治療基準の項の内容は次のとおりである。

(a) 治療基準

本症の治療には未解決の問題が多く現段階で決定的な治療基準を示すことは困難であるが、進行性の本症活動期病変が適切な時期に行われた光あるいは冷凍凝固法によって治癒しうることが多くの研究者の経験から認められているので臨床経過の分類基準に基づき一応の治療基準を示す。

(b) 治療の適応

Ⅰ型は臨床経過が比較的緩徐で進行状態を追跡する余裕があるので、自然治癒傾向を示さない重症例のみに治療を施すとともに不要な症例に行き過ぎた治療を施すべきでない。

Ⅱ型は患者が極小低出生体重児で網膜症が異常な速度で進行するため、治療の適期判定や治療の施行そのものに困難を伴うが、失明防止のため治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれる。

(c) 治療時期

Ⅰ型の2期までは治療を要せず、3期で更に進行の徴候が見られるときに治療が問題となる。

Ⅱ型は血管新生期から突然網膜剥離が起ることが多いので、Ⅰ型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失うおそれがあり、治療の決断を早期に下さなければならない。この型は極小低出生体重児の未熟性の強い眼に起るので、綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましい。無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出変化が起り始め、後極部血管の迂曲、怒張が増強する徴候が見えた場合は直ちに治療を行うべきである。

(d)治療方法

光凝固はⅠ型では無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部付近は凝固すべきでない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることがある。Ⅱ型においては無血管帯領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に十分な注意が必要である。冷凍凝固も凝固部位は光凝固に準ずるが、一個あたりの凝固面積が大きいことを考慮して行う。冷凍凝固に際しては倒像検眼鏡で氷斑の発生状況を確認しつつ行う必要がある。

初回の治療後、症状の軽快が見られない場合には治療を繰返すこともありうる。また全身状態によっては数回に分割して治療せざるをえないこともありうる。

(三) 被告小樽市の責任原因

(1) 原告一郎の主治医の義務違反

(ア) 全身管理義務違反

本症は、自然治癒率の高い疾病であるから、全身状態を良好に保てば、発症を予防でき、また発症しても自然治癒により失明に至ることを防止できる。したがって、低出生体重児の保育に携わる医師としては、児の全身状態を良好に保つべく、時々刻々変化する児の状態を継続的に注意深く観察・記録し、これに対して適切な体温管理、酸素管理、栄養管理等の全身管理を行うべき法律上の義務がある。

原告一郎の小樽市立病院における主治医は、出生当初から五日間位は松浦信夫(以下「松浦医師」という。)であり、昭和四五年六月一日からは上原秀樹(以下「上原医師」という。)となった。両医師は次に述べるとおり全身管理義務を懈怠した。

(a) 注意深い全身観察を怠ったこと

両医師は、低出生体重児の保育に際しては、何よりもまず児の全身の観察を行うべきであるのにこれを怠り、昭和四五年五月二七日、二九日、三〇日、六月二日、四日、一〇日の六回以外は原告一郎を診察しなかった。また、両医師は、酸素投与の要否が問題となるような未熟児については、継続して最低一日四回位呼吸数を測定することが全身管理上不可欠であるのに同年五月二九日以降は全く呼吸数を測定しなかった。

(b) 体温管理の不適切

一般に未熟児は不適当な環境においては低体温(摂氏三五・五度以下、なお、以下「体温」及び「温度」については摂氏を省略する。)に陥りやすい。低体温に放置された場合には、無呼吸、哺乳障害、チアノーゼ、浮腫等の症状を呈する。極端な場合には寒冷死する。体温管理は、栄養管理とともに全身状態の管理の基礎である。この成否が呼吸、循環、代謝と身体のすべての機能に影響を及ぼす。体温管理なくしては呼吸と循環の管理もありえない。低体温が続くと、体温を上昇させるため、体内での化学的機序による熱産生を続け、脂肪を消費し、酸素の需要を増加させ、酸素消費量を増大させる。必要とする熱量が大きいため、栄養が十分与えられていなかったり、体外からの熱の供給がないと、まず発育や運動に必要なカロリーを減らし(発育が停止され、運動も不活発になる。)、更には基礎代謝も低下させて適応しようとする。そのため、呼吸運動も不十分となるし、末梢循環も悪くなり、低体温が続くという悪循環に陥り、全身状態は悪化し死亡率も高くなる。そこで、この体温を保育環境温度の調節による外部からの熱量供給と、輸液による低血糖の補正及び授乳などの栄養補給による内部からの熱量産生とによって適正値に維持していくことが必要になる。維持すべき体温は三六・五度である。これが酸素消費量を最も少なくし、熱量消費を最も少なくする。つまり、三六・五度の体温が患児の負担が一番少ない体温である。

原告一郎の体温は、出生直後の小児科入院時に三四度、以後生後八日目までは三四度台ないし三五・五度以下の三五度台、九日目以降二七日目位まではおおむね三五度台の低体温で推移し、ほぼ安定的に三六・五度前後の体温になったのは生後三五日目位からである。原告一郎の保育経過からみて、低体温の原因となる感染症や脳障害があったとは認められないから、長期間低体温が持続したのは、主治医の体温管理の不適切さに起因すると認めざるをえない。主治医は、当初、原告一郎の保育器内温度を三〇度にするよう指示した。しかし、原告一郎の生下時体重は一九八〇グラム、小児科入院当初の体温は三四度という低体温であったから、当初の器内温度は少なくても三二度ないし三四度程度とすべきであった。仮に、当初の器内温度を三〇度に設定したこと自体は是認する余地があるとしても、その器内温度で二、三時間たっても、体温が三六・五度まで上昇しない場合には、一度ずつ三、四時間毎に器内温度を上昇させて行き、体温が三六・五度に達したら同じ器内温度を維持するといった調節が必要である。しかし、主治医は、体温管理を目的とした器内温度の調節をした形跡は一切なく、重大な手落ちがある。

(c) 酸素管理の不適切

昭和四五年当時の酸素管理の基本は前記4(二)(4)(イ)記載のとおりであったから、主治医らには右基準にそって酸素管理をすべき義務があった。

右基準によれば、未熟児保育にあたっては、医学的な適応のある場合、すなわち一般には全身チアノーゼのある場合、高度な呼吸困難にある場合に限って酸素を用いることとされていた。原告一郎は小児科入院時全身チアノーゼはなかったし、また呼吸状態も当初から良好で安定していた。したがって、原告一郎には酸素投与の適応はなく、酸素投与は当初から不要であった。しかるに主治医らは、原告一郎に対して出生直後の昭和四五年五月二七日午前五時三〇分ころから、同年六月二三日午前一〇時までの間、保育器内で継続して毎分三リットルの酸素を投与した。

また、仮に酸素投与の適応があったとしても、右基準によれば、保育器内の児の頭部近くの酸素濃度をできるだけ頻回(四時間毎位)に測定すべきものとされているのに、濃度の測定がなされていない。これも酸素管理の初歩的な手落ちである。更に、当時小樽市立病院には動脈血中酸素分圧測定機が導入されていたのに、主治医らは動脈血中酸素分圧を測定せずに、漫然酸素投与を続けた。

(d) 栄養管理の不適切

体重増加は未熟児の全身的組織、機能の発育の目安である。体重増加の遅れは、本症発症の素地を残し、また自然治癒傾向を阻害する悪条件となる。したがって、主治医らとしては、体重が順調に増加するように、哺乳量・輸液量を調節することで適切な栄養管理を行うべき義務がある。また、適切な栄養管理は低体温の解消にも役立つ。

原告一郎の体重が生下時体重である一九八〇グラム程度に回復したのは、生後二六日目の昭和四五年六月二一日であるが、このクラスの体重の新生児の標準的な体重回復日数である一〇日に比べて、一五日も回復が遅れている。これは、栄養補給の不適切さ(哺乳量の過少、輸液せず)に起因すると認められる。

(イ) 眼底検査義務違反及び治療義務違反

前記のとおり、原告一郎が出生した昭和四五年五月当時においては、本症の早期発見、早期治療のための定期的眼底検査の必要性(生後一週間位から週一回数か月にわたり行うこと)に関する知見は広く普及していた。また永田医師が開発した光凝固法も本症の治療法として確立していたか、少なくてもその有効性は一般に承認されていた。しかるに主治医らが、原告一郎の保育期間中、一度も眼底検査をせず、また光凝固法による治療ないしそのための転医の手続をしなかったのは、重大な義務違反である。

(ウ) 説明義務違反

原告一郎が出生した当時、酸素投与による本症発症の危険性があること及び本症の早期発見・早期治療のため定期的眼底検査が必要であることの知見は広く確立していた。また、光凝固法が本症の治療法として確立していたか、少なくても有効性が一般に承認されていたことは前記のとおりである。

医師は、一般に自己が診療した患者について、その診療行為(本件では酸素投与)が原因となって患者に失明等の重大な後遺症が発生するおそれがあることを知っているときは、その検査と治療を適期に受けさせるため、その治療法の有無や検査治療のできる医療機関を自ら調査し、患者側にこれを説明し、受診を勧告すべき法律上の義務がある。

この説明義務は、その治療法が当時の医療水準として確立していなくても、有効性が医学的に一定程度評価されている場合には、失明等という後遺症の重大性に鑑み、患者側の自己決定権を尊重する観点から、そのような治療法を受ける機会を与えるため、主治医に課された義務である。

原告花子は、未熟児に酸素を与えすぎると失明するなど眼に障害が残るといった本症の解説記事が雑誌に掲載されていたことを思い出し、また、原告一郎が保育器から出されたあと、目が大きく、飛び出しているような感じを受けていたことから不安になり、昭和四五年七月上旬、主治医の上原医師に会い、右二点の不安を具体的に質問した。ところが、上原医師は「体が小さいから目が大きく感ずるんだろう、別に異常ではない。」旨答えて説明しただけであった。上原医師が少なくても、右の時点で本症発症のおそれがあることに思いを致し、直ちに治療法や治療のできる医療機関を調査し、これを原告花子に説明していたら、原告一郎は東京の国立小児病院ないし奈良県の天理よろづ相談所病院に移送され、光凝固法などの治療を受けることができた。右の昭和四五年七月上旬の時期は、生後四〇日目前後で治療が効を奏する可能性のある時期であった。

(2) 被告小樽市の債務不履行責任

原告一郎は、主治医らが前記のとおり全身管理義務・眼底検査義務・治療義務及び説明義務に違反したことにより前記視力障害を受けたものである。被告小樽市は、前記診療契約に基づいて、原告一郎、原告太郎及び原告花子に対して右各義務を履行すべきものであり、かつ前記主治医らは被告小樽市の右義務の履行補助者の立場にあったものである。したがって、被告小樽市には、右主治医らの義務違反、すなわち診療契約上の債務不履行により生じた損害を賠償すべき責任がある。

(3) 被告小樽市の不法行為責任

仮にそうでないとしても、原告一郎は、被告小樽市の被用者である前記主治医らがその経営する小樽市立病院の事業の執行に付きなした前記過失行為により視力障害を受けたものである。したがって、被告小樽市には、民法第七一五条の規定に基づき、生じた損害を賠償すべき責任がある。

(4) 被告小樽市の国家賠償法に基づく責任

被告小樽市は、その経営する小樽市立病院において原告一郎の酸素保育を行うにあたって、保育器に酸素濃度計を備えず、本症についての医学知識が十分でない勤務医師を診療に従事させ、産科、小児科、眼科間において本症の予防、検査、治療の協力関係を作ることもせず、未熟児を適切な他診療機関に転医せしめるための携帯用保育器も備えていなかったのであり、これらの欠陥は、人的手段及び物的施設の総合体としての公の営造物である市立病院の設置管理の瑕疵であるから国家賠償法第二条の責任がある。

(四) 被告横尾の責任原因

(1) 被告横尾の義務違反

(ア) 早産防止義務違反

原告秋夫が出生した昭和四五年一二月二五日当時、未熟児として生まれた児に本症が発症する危険性のあることは、医師の間では一般的知見として確立されていた。したがって、産婦人科の診療に携わる医師としては、早産の徴候の生じた時点で縫縮術等を施すことにより早産を防止すべき法律上の義務があった。

しかるに、被告横尾は、昭和四五年八月ころ、同年五月に原告秋夫を妊娠した原告夏子の心音診察をする際、右早産の徴候を知り、原告夏子に対して「そろそろ、しばらなければまずいな」といいながらもそのまま放置した。原告夏子は、同年一二月一五日に自宅で性器出血があり、また同月二四日に出血があったので被告横尾に対して入院させて欲しい旨申し入れた。ところが、被告横尾は、自宅で安静にしていれば良いというのみで原告夏子を入院させなかった。原告夏子は、同月二五日になって大出血を起し、陣痛が開始したため、ようやく入院させてもらった。被告横尾は、当日、何ら手当をすることもなく原告秋夫を出産させてしまった。したがって、被告横尾は、早産防止義務に違反している。

(イ) 転医義務違反

医師には、自己の医学水準及び設備・スタッフ等に照らして患者に対し適切な治療等を施せないと判断したときには、他の設備・スタッフのととのった病院に患者を移送し、適切な治療を受けさせるべき法律上の義務がある。

被告横尾は、専門が産婦人科で、昭和二七年から産婦人科病院を開業しているが、小児科の経験はなく、昭和二一年から二七年まで在籍した北大病院産婦人科医局時代も含めて、生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児を保育した経験がなかった。また、同人の経営する横尾病院は、設備の面でも、保育器は備付けていたが、酸素濃度計や動脈血中酸素分圧を測定する機器もなく、スタッフの面でも検査技師や未熟児保育に経験のある看護婦がいなかった。したがって、当時原告秋夫の保育を被告横尾が適切に行うのは困難な状況にあった。したがって、被告横尾としては、原告秋夫の出生後直ちに、当時札幌市内において母子保健法に基づく指定養育医療機関として指定されていた国立札幌病院と北大病院のいずれかの病院に移送すべきであったのにこれを怠った。

(ウ) 全身管理義務違反

全身管理義務の内容は前記4(三)(1)(ア)冒頭記載のとおりである。しかるに、原告秋夫の主治医であった被告横尾は、次に述べるとおり全身管理義務を懈怠した。

(a) 注意深い全身観察の懈怠

被告横尾は、低出生体重児の保育に際しては、何よりもまず児の全身の観察を行うべきであるのにこれを怠り、自らは原告秋夫を診察せず、全身管理上不可欠な呼吸数、心拍数、体温の測定もしなかった。また看護婦にも測定の指示をしなかった。

(b) 体温管理の不適切

被告横尾は、保育器内の温度調節その他の方法により原告秋夫の体温を適切に管理して低体温による全身状態の悪化を防止すべき義務があったのにこれを怠り、保育を看護婦に任せきりにしたまま、自らは何の指示・管理もしなかった。

(c) 酸素管理の不適切

昭和四五年当時の酸素管理の基本は前記4(二)(4)(イ)記載のとおりであったから、主治医には右基準にそって酸素管理をすべき義務があった。

右基準によれば、医学的な適応のある場合、すなわち一般には全身チアノーゼのある場合、高度な呼吸困難のある場合に限って酸素を用いることとされていた。原告秋夫には、出生当初チアノーゼはなかったし、呼吸状態も良好であったから、酸素投与の適応はなく、酸素投与は当初から不要であった。しかるに、被告横尾は、原告秋夫に対し、出生日である昭和四五年一二月二五日から昭和四六年一月二日までの間、酸素投与を行った。投与量は当初毎分三リットルであり、その後の増減は不明であるが、毎分三リットルは上回らない。投与は昭和四五年一二月二七日に一時中断されたが同日中に再開されている。これは明らかに右基準に反するものである。

また、被告横尾は、右基準によれば、仮に酸素を投与すべき場合でも、酸素投与中は頻回に患児の症状を見、必要があれば酸素量の調節を行い、また、四時間毎位には保育器内の児の頭部付近の酸素濃度を測定すべきものとされているのに、保育を看護婦に任せきりにし自らは原告秋夫を診察せず、酸素投与についての指示も与えず、濃度測定もしなかった。また、被告横尾は必要な動脈血中酸素分圧の測定もしなかった。

(d) 栄養管理の不適切

被告横尾は、良好な全身状態を作り出し、低体温を解消するため、体重が順調に増加するように、哺乳量・輸液量を調節することで適切な栄養管理を行うべき義務があるのに、これを怠り、看護婦に任せきりにし必要な指示等をしなかった。そのため、原告秋夫の体重が生下時体重である一三〇〇グラム程度に回復したのは生後三〇日目の昭和四六年一月二三日となった。このクラスの体重の新生児の標準的体重回復日数は一八日であるから、原告秋夫は、これに比べて一二日も回復が遅れている。これは栄養補給の不適切さ(哺乳量の過少、輸液せず)に起因すると認められる。

(エ) 眼底検査義務違反及び治療義務違反

原告秋夫の出生した昭和四五年一二月当時においては、本症の早期発見・早期治療のための定期的眼底検査の必要性(生後一週間位から週一回の割合で数か月にわたり行うこと)についての知見は広く普及していた。また永田医師が開発した光凝固法も本症の治療法として確立していたが、少なくてもその有効性は一般に承認されていた。しかるに、被告横尾は、原告秋夫の保育期間中、一度も眼底検査をせず、また光凝固法による治療ないしそのための転医の手続きをしなかった。これは、重大な義務違反である。

(オ) 説明義務違反

原告秋夫が出生した当時、酸素投与による本症発症の危険性があること及び本症の早期発見・早期治療のため定期的眼底検査が必要であることの知見は広く確立していた。また、光凝固法が本症の治療法として確立していたか、少なくても有効性が一般に承認されていたことは前記のとおりである。かかる場合には、医師に説明義務のあることはすでに原告一郎に関して述べた(4(三)(1)(ウ))とおりである。

本件では、原告春夫らが原告秋夫の退院する前ころ、原告秋夫の目が少し出目の感じがし、また黒目が下に落ちて白目だけになることに気付き、退院日の昭和四六年三月九日(生後七五日目)、被告横尾に目が不安定ではないかと尋ねた。同被告は、自分の指を頭の横でくるくる回しながら「脳の関係でそうなっている。今後成長過程をよく観察する必要がある。」と答えただけで、眼科受診を指示したりしなかった。被告横尾は、遅くても右退院時点で、原告秋夫に本症発症のおそれがあることに思いを致し、治療法、治療できる医療機関を調査し、これを原告春夫らに説明すべきであった。説明していれば、原告秋夫は東京の国立小児病院ないし奈良県の天理よろづ相談所病院に移送され光凝固法などの治療を受けることができた。

(2) 被告横尾の債務不履行責任

原告秋夫は、被告横尾が、前記のとおり早産防止義務・転医義務・全身管理義務・眼底検査義務・治療義務及び説明義務に違反したことにより前記視力障害を受けたものである。被告横尾は、前記診療契約に基づいて原告秋夫、原告春夫及び原告夏子に対して右各義務(ただし、早産防止義務については原告秋夫をのぞく。)を履行すべきものであるから、被告横尾には、右義務違反、すなわち診療契約上の債務不履行により生じた損害を賠償すべき責任がある。

(3) 被告横尾の不法行為責任

仮にそうでないとしても、原告秋夫は被告横尾の前記過失行為により視力障害を受けたものであるから、被告横尾には、民法七〇九条の規定に基づき、生じた損害を賠償すべき責任がある。

(五) 被告全社連の責任原因

(1) 原告梅子の担当医師らの義務違反

(ア) 全身管理(酸素管理)義務違反

低出生体重児の保育に携わる医師が児の全身管理義務を負うことは前記4(三)(1)(ア)冒頭記載のとおりである。そのうち、特に酸素管理については本症発症との関連がかねてから指摘され、昭和四五年当時には前記4(二)(4)(イ)記載の酸素管理の基準が確立されていたから、原告梅子の出生した昭和四七年五月二二日当時、医師には右基準に基づいて酸素を管理すべき法律上の義務があった。

原告梅子が昭和四七年五月二二日に北海道社会保険中央病院に入院した際の主治医は、前記上原医師と藤田光江(以下「藤田医師」という。)であった。両医師は、医師の免許取得後三年ないし四年以下の経験しかなかったため、同院小児科部長である南部春生(以下「南部医師」という。)の指導・許可のもとに診療行為にあたり、児の保育に関する重要事項は南部医師と相談のうえで決定していた。右南部、上原及び藤田の各医師は、次に述べるごとく、右酸素管理義務を怠った。

前記基準によれば、まず、酸素投与が許されるのは、全身チアノーゼのある場合と高度な呼吸困難状態にある場合のみとされている。原告梅子は、昭和四七年五月二五日に黄疸治療のための光線療法を行っていた際、一瞬無呼吸発作が出現し、全身チアノーゼが出現したことがあったのをのぞいては、全身性や中心性のチアノーゼを呈したことはない。また呼吸数も不規則になることはなく、呼吸状態の異常が生じたこともなかった。したがって、原告梅子には北海道社会保険中央病院に入院中、酸素投与の適応があったことはなく、酸素投与は全く不要であった。しかるに、前記原告梅子の担当医師らは、原告梅子に対して、昭和四七年五月二二日には毎分二リットル、同月二三日からは毎分一リットル、同月二七日からは毎分〇・五リットルの酸素をそれぞれ投与し、そのまま同年六月二日まで投与を続けた。

仮に、原告梅子の症状に酸素投与の適応があったとしても、その投与期間は、前記基準に照らして長きに失している。未熟児は、確かに、出生直後には生命維持に危険な状態が存する場合がある。その期間は、児の体重、在胎日数によって異なるが三日程度といわれている。原告梅子の場合は、他院からの搬入であり、低血糖状態もあり、生下時体重も一三〇〇グラムであったから、三日ないし五日程度の酸素投与も必要であったかもしれない。しかし、前記基準のとおり、酸素は不必要となれば直ちに投与を中止すべきことも当時確立されていた医学知識であった。したがって、右の出生直後数日間の酸素投与は、場合によってはルーチンに行われることもやむをえないとしても、その後は、酸素適応の異常症状が発現した都度、蘇生器を用いて一時的に投与を行うべきであってルーチンに投与することは許されない。原告梅子に対する南部医師らの酸素投与は、昼夜を分かたず、一二日間にわたりルーチンに送り込んだもので、前記基準に明らかに反しており、児の眼底に対する影響は極めて強いものであった。

次に、前記基準によれば、当時、投与すべき酸素の濃度は、酸素投与の適応の場合であっても四〇パーセント以下に抑えるべきものとされていた。これが確立された本症の予防策であった。南部医師らは、これを知りながら、適切な酸素量の調節を怠った。そのため、原告梅子に投与された酸素濃度は、入院六日目の同年五月二七日には、四五パーセントとなり、最高では四六パーセントになった。看護婦の申告により、医師らは投与量を毎分〇・五リットルに切り換えたが、それでも最高四二パーセントの濃度となっていた。

更に、原告梅子の担当医師らは、本症の防止には、保育器内の酸素濃度を測定するよりも直接に児の動脈血中酸素分圧を測定する方法の方がより確実であることを知りながら、動脈血中酸素分圧の測定をしなかった。

(イ) 眼底検査義務違反

原告梅子が出生した昭和四七年五月当時においては、本症の早期発見・早期治療のためには定期的な眼底検査が必要である(生後一週間位から週一回の割合で数か月にわたり行うこと)との知見は広く普及していた。

しかるに、原告梅子の担当医師らは、原告梅子の入院保育期間中一度も眼底検査をしなかった。

(ウ) 説明義務違反

原告梅子が出生した当時、酸素投与による本症発症の危険性があること及び本症の早期発見・早期治療のため定期的眼底検査が必要であることの知見は広く確立していた。また、光凝固法が本症の治療法として確立していたか、少なくても有効性が一般に承認されていたことは前記のとおりである。かかる場合には、医師に説明義務のあることは、すでに原告一郎に関して述べた(4(三)(1)(ウ))とおりである。

南部医師は、本症との関係での眼底検査の必要性や本症治療法としての光凝固法の存在を知りながら、原告梅子の入院中も退院時も、原告松夫、原告竹子に対し、本症の存在、原因、治療法などについて説明し、かつ、眼科医への早期受診を勧告しなかった。原告竹子は、退院直後の昭和四七年七月二五日ころ、親戚から原告梅子の眼に異常があるのではないかといわれた。不安になった原告竹子が南部医師に電話して「梅子の目がおかしいと姉がいうから、眼科に連れて行った方が良いですか。」と尋ねたところ、同医師は「小さく生まれたので、生まれたばかりと同じだから心配ない。この暑いさかりにばい菌がウヨウヨしている病院につれていってどうなるんですか。九月一九日の乳幼児相談に連れて来て下さい。」と答えたにとどまった。同年九月一九日、原告竹子が梅子を連れて、同医師の診察を受け、「この子は上の子と違って表情がなく、物を追わない。大丈夫ですか。眼科に連れて行かなくてもよいですか。」と尋ねた際も、同医師は「小さいから当り前です。視力がしっかりしなくては検査のしようがない。」といって、身長、体重を測定し次回の乳幼児相談日の同年一一月二一日に来るように告げたのみで、本症に関する何らの説明もせず、眼科医の受診について勧告もしなかった。

(2) 被告全社連の債務不履行責任

原告梅子は、担当医師らが前記のとおり全身管理(酸素管理)義務、眼底検査義務及び説明義務に違反したことにより、前記視力障害を受けたものである。被告全社連は、前記診療契約に基づき、原告梅子、原告松夫及び原告竹子に対して右各義務を履行すべきものであり、かつ前記担当医師らは被告全社連の右義務の履行補助者の立場にあったものである。したがって、被告全社連には、右担当医師らの義務違反、すなわち診療契約上の債務不履行により生じた損害を賠償すべき責任がある。

(3) 被告全社連の不法行為責任

仮にそうでないとしても、原告梅子は、被告全社連の被用者である前記担当医師らがその経営する北海道社会保険中央病院の事業の執行に付きなした前記過失行為により視力障害を受けたものである。したがって、被告全社連には、民法第七一五条の規定に基づき、生じた損害を賠償すべき責任がある。

5  損害

(一) 逸失利益

原告一郎、原告秋夫及び原告梅子はいずれも失明ないし高度の視力障害により労働能力を完全に喪失した。昭和四九年賃金センサスによると産業計全労働者の年間賃金は一七五万八二〇〇円である。これにより右原告らの一八歳から六七歳までの逸失利益現価をホフマン式計算法によって求めると、次のとおりとなる。

原告一郎 三二三二万八〇二三円

1,758,200円×18.387=32,328,023円

原告秋夫 三一六八万九七九六円

1,758,200円×18.024=31,689,796円

原告梅子 三一〇七万九七〇一円

1,758,200円×17.677=31,079,701円

(二) 慰藉料

原告一郎、原告秋夫及び原告梅子は、今後、日常生活はもとより、成長するにしたがい、教育、職業、結婚などあらゆる面において制限と差別を受けながら生きて行かなければならない。その苦痛は慰藉料として十分に償われるべきである。

また、右原告らの両親である原告太郎及び原告花子、原告春夫及び原告夏子並びに原告松夫及び原告竹子は、現実の育児に対する不十分な教育施設に悩みながら原告一郎、原告秋夫及び原告梅子の教育に努め、普通児に比較して何倍もの労苦を伴う介護を行い、原告一郎、原告秋夫及び原告梅子の成長にしたがって職業、結婚などのあらゆる差別に対処して行かなければならない。その労苦と悲しみは慰藉料として十分に償われるべきである。

したがって、原告らの右の精神的苦痛を慰藉するには、原告一郎、原告秋夫及び原告梅子については、各一〇〇〇万円、その余の原告ら六名については各五〇〇万円をもってするのが相当である。

(三) 弁護士費用

原告らは、原告ら訴訟代理人らに本件訴訟の追行を委任し、手数料及び謝金として、右損害額の一〇パーセントに相当する金員をそれぞれ支払う旨契約した。

(四) 以上の損害を各原告別にまとめると次のとおりとなる(なお、原告一郎、原告秋夫及び原告梅子については百万円未満の部分を切り捨て、一部請求としたものである。)。

(原告名) (逸失利益) (慰藉料) (弁護士費用) (合計)

一郎 三二〇〇万円 一〇〇〇万円 四二〇万円 四六二〇万円

太郎 五〇〇万円 五〇万円 五五〇万円

花子 五〇〇万円 五〇万円 五五〇万円

秋夫 三一〇〇万円 一〇〇〇万円 四一〇万円 四五一〇万円

春夫 五〇〇万円 五〇万円 五五〇万円

夏子 五〇〇万円 五〇万円 五五〇万円

梅子 三一〇〇万円 一〇〇〇万円 四一〇万円 四五一〇万円

松夫 五〇〇万円 五〇万円 五五〇万円

竹子 五〇〇万円 五〇万円 五五〇万円

6  結論

よって、原告一郎、原告太郎及び原告花子は、被告小樽市に対して前記債務不履行ないし不法行為もしくは国家賠償法による損害賠償の請求として、原告秋夫、原告春夫及び原告夏子は、被告横尾に対して前記債務不履行ないし不法行為による損害賠償の請求として、原告梅子、原告松夫及び原告竹子は、被告全社連に対して前記債務不履行ないし不法行為による損害賠償の請求として、それぞれ前記5(四)の合計額欄各記載の各金員並びにこれに対する訴状送達の日ののちである昭和五一年七月一七日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

(被告小樽市)

1 請求原因1(一)及び(四)の各事実は認める。

2 同2(一)の事実は認める。

3 同3(一)の事実のうち、原告一郎が昭和四五年五月二七日に小樽市立病院で出生したこと、在胎期間三二週、生下時体重が一九八〇グラムの未熟児であったこと、同日から同年六月三〇日まで保育器内に収容されていたこと、同年五月二七日から六月二三日までの二八日間毎分三リットルの酸素投与を受けたこと、同年七月二三日に体重三四〇〇グラムで退院したことは認めるが、その余の事実は不知。

4 (一) 同4(一)の主張は争う。

(二) 同4(二)の(1)の事実のうち、「保育器による未熟児保育の際の酸素の過剰な供給が原因となって発症する」との部分を否認し、その余の事実は認め、同4(二)の(2)ないし(4)の主張は争う。

(三) 同4(三)の事実のうち、原告一郎の主治医が松浦医師と上原医師であったこと(なお、今井浩((以下「今井医師」という。))も診察に携っている。)、原告一郎の保育期間中眼底検査をしていないことを認め、その余の主張は争う。

5 同5の事実は不知。

(被告横尾)

1 請求の原因1(二)及び(五)の各事実は認める。

2 同2(二)の事実は認める。

3 同3(二)の事実のうち、原告秋夫が昭和四五年一二月二五日に横尾病院で出生したこと、在胎期間二八週、生下時体重が一三〇〇グラムの未熟児であったこと、同日から昭和四六年二月二五日まで保育器内に収容されたこと、昭和四五年一二月二五日から昭和四六年一月二日までの間酸素投与を受けたこと、投与量が当初毎分三リットルであったこと、同年三月九日体重二八五〇グラムで退院したことは認めるが、その余の事実は不知。

4(一) 同4(一)の主張は争う。

(二) 同4(二)の(1)の事実のうち、「保育器による未熟児保育の際の酸素の過剰な供給が原因となって発症する」との部分を否認し、その余の事実は認め、同4(二)の(2)ないし(4)の主張は争う。

(三) 同4(四)の事実のうち、原告秋失の主治医が被告横尾であったこと、原告秋夫の保育期間中眼底検査をしていないことは認め、その余の主張は争う。

5 同5の事実は不知。

(被告全社連)

1 請求の原因1の(三)及び(六)の各事実は認める。

2 同2(三)の事実は認める。

3 同3(三)の事実のうち、原告梅子が昭和四七年五月二二日に札幌市内のにいだ産婦人科で出生したこと、在胎期間三一週、生下時体重が一三〇〇グラムの未熟児であったこと、同日北海道社会保険中央病院に転院したこと、同原告が同日から同年七月四日までの四四日間保育器内に収容されたこと、同年五月二二日から同年六月二日までの一二日間酸素投与を受けたこと、投与量が当初毎分二リットルであったこと、同年五月二三日には毎分一リットルにされたこと、同月二七日には毎分〇・五リットルとなったこと、同年七月二三日体重二八六〇グラムで退院したこと、同原告が同年一一月二一日に北海道社会保険中央病院眼科で検査を受けたことは認めるが、その余の事実は不知。

4(一) 同4(一)の主張は争う。

(二) 同4(二)の(1)の事実のうち、「保育器による未熟児保育の際の酸素の過剰な供給が原因となって発症する」との部分を否認し、その余の事実は認め、同4(二)の(2)ないし(4)の主張は争う。

(三) 同4(五)の事実のうち、原告梅子の担当医師が南部医師、上原医師及び藤田の各医師であったこと、原告松子の保育期間中眼底検査をしていないことは認め、その余の主張は争う。

5 同5の事実は不知。

三  被告らの主張

1  新生児期における未熟児の死亡率は成熟児の一〇倍という高率である。未熟児は胎外生活に適応する能力を備えないうちに出生した新生児であるから、多くの生理的弱点を有する。その保育は困難を極め、万全の医療を施してもなお死の結果を回避しえないことが少なくない。未熟児の新生児期における主たる死因としては、肺拡張不全、肺硝子様膜症、頭蓋内出血、肺出血、感染症及び核黄疸があげられる。未熟児は、常にこのような疾病による死の危険にさらされている。たとえ死を免れえたとしても脳性麻痺という悲惨な後遺症を負うことも少なくない。本件において、原告一郎、同秋夫、同松子の生命が救われ、脳性麻痺にもならず、無事退院できたのは、担当医師や看護婦らの献身的努力の成果であって、結果的に右原告ら三名が本症に罹患していたとしても、本件各診療当時における一般小児科医、産科医の医学知識や被告ら三病院の医療設備、医療環境のもとでは、本症を完全に予防、治療することは到底不可能であったから、被告らには原告らの主張するごとき義務違反、過失はない。

2  本件発生当時の本症に関する一般的医学水準

(一) 未熟児網膜症

本症は、発達途上の網膜血管に起る非炎症性の血管病変である。その大部分は未熟児に起るが、まれには成熟児にも起る疾患である。

本症については、一九四二年にテリーがRetrolental fibroplasia(水晶体後部線維増殖症、R・L・F)と名づけ、水晶体血管膜を含む、胎生血管の遺残・過形成によるものとして以来、広く「R・L・F」と呼ばれてきたし、現在、米国でも広くこの名が用いられている。

しかしながら、その臨床症状、本態が解明されるにしたがって、その名称は網膜症瘢痕期五度の状態をあらわすもので不適当であると考えられ、一九五二年、ヒースは本症にとって、より適切な名称としてRetinopathy of prematurityという用語を用いた。

その後、一九六六年、この語はわが国には植村恭夫によって紹介され、未熟網膜症あるいは未熟児網膜症と呼ふべきではないかと提唱され、結局、眼科領域をはじめ一般的には、未熟児網膜症という語を用いることが普及してきた。

(二) 本症の原因

本症の発生原因については幾多の説があり、現在の医学でも定説はない。未熟児に対する酸素投与が本症発症の因子の一つであることには異論はないが、これのみが因子であるとの断定はなしえない。マスコミ等では、保育器内で高濃度の酸素の供給を受けることにより、当然に本症を惹起するかのごとく取り沙汰されているが、実際には全く酸素供給を受けなくても本症を発症するケースもあれば、四〇パーセントを超える高濃度の酸素の供給が行われても全く発生しないケースも少なくない。一般に疾病を招く因子の中には、素因と誘因とがあるとされている。本症についても酸素は、出生に伴う胎児ヘモグロビンの酸素飽和度の急激な上昇、未熟網膜に対する光の影響その他先天的原因等々とともに誘因の一つとされている。そして、本症の素因(絶対的原因)は、今日では未熟児網膜のもつ高度の未熟性にあるとされている。そのため本症を未熟児網膜症と呼ぶことは不適当であり、未熟網膜症(もしくは網膜未熟症)と呼ぶべきである(未熟児であることと網膜が未熟であることは別問題であり、生下時体重から成熟児とされる者の中にも網膜の未熟なものはありうる。)との主張もなされ、そのような用語例も次第に定着しつつある。

したがって、「保育器による酸素の過剰な供給」が本症の原因であるとする原告らの主張は誤りである。

(三) 本症の予防及び治療方法

(1) 全身管理

未熟児の保育において、全身管理が大切であることはいうまでもない。しかし、それは、新生児の生命を守り、発育を良好にするうえで、重要視されているのであって、本症の予防や治療を目的とするものではない。

原告は「全身管理が良ければ本症にならず、もし網膜症になっても、自然治癒する。」旨主張するが、それは全く学問的根拠のない独自の見解にすぎない。もし、全身管理によって本症を完全に予防できたり、自然治癒させることができるのなら、眼底検査や治療法に関する議論は全く不要となり、医師は専ら全身管理に専念すれば良いということになっているはずである。しかし、現実には、どうすれば完全に予防でき、あるいは、治療できるのか、その基準は今日においてもまだ確立していないばかりか、研究が進めば進むほど、未熟児網膜症の予防治療の困難さが明らかとなっているのが現状である。

全身管理有効論が、何ら学問的根拠のない空論である以上、本件主治医が行った全身管理(酸素管理をのぞく。)の適否は、本件の過失の存否には何ら関係のない問題である。

(2) 酸素管理

(ア) 未熟児に対する酸素投与の必要性

未熟児は胎外生活に適応する能力を備えないうちに出生した新生児であるから、生理的に不利な点が多く、その保育は多くの困難を伴う。例えば未熟児の主たる生理的特徴を列挙すると呼吸機能未熟、体温調節機能未熟、腎機能未熟、消化管の耐容力低下、毛細血管の脆弱、造血機能の欠陥、水分蓄積増加(浮腫を起しやすい)、無機物・ビタミン・免疫体の不足、肝臓機能の未熟、酵素活性の未熟である。右諸点のうち、呼吸機能未熟の点は未熟児にとり最も危険な生存上の欠陥である。未熟児は、呼吸中枢及び肺が未熟で、胸郭が軟弱で呼吸補助筋の発育も不良であるため、呼吸運動の調節が十分できない。未熟児の呼吸は浅く、弱く、不規則で、わずかなことで呼吸困難を来たしやすい。したがって、呼吸の確立が未熟児の生存の第一条件である。

低出生体重未熟児の場合、呼吸障害症候群(肺拡張不全、肺硝子様膜症)を発症することが多く、酸素の供給が不可欠であることは医学の常識である。未熟児にとって酸素不足は死亡や脳性麻痺の原因となるため、チアノーゼや呼吸困難などの症状のない未熟児に対しても一応酸素を供給すべきであるというのが、かつての支配的見解であった。例えば、小児科医の日常の診療上のハンドブックとして広く利用されている「東大小児科治療指針」(以下単に「指針」という。)の第三版(昭和三六年刊行)によれば、「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても、総て酸素を供給すべきか否かに就ては議論があるが、我々は現在の処、ルーティンとして酸素の供給を行っている。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、又、肺の毛細血管の発達が不十分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳傷害や無酸素性脳出血を起す可能性が強いからである。」(同書三二九頁)と述べている。そしてこの見解は昭和四〇年代に入っても基本的には変更されず、「指針」の第六版(昭和四四年一二月刊行)においても第三版と同様の論理で酸素投与の必要性が肯定されており、「ルーチンに酸素を行うこともあるが、この場合には酸素濃度は三〇%以下にとどめる。酸素投与の期間はなるべく短い方がよい。」との制限的配慮も加えられてはいるが、「しかし、呼吸窮迫症候群やチアノーゼの認められる場合には更に高濃度の酸素を使用する必要がある。」とされている。

因みに、「指針」の第七版は昭和四九年七月に刊行され、酸素供給についての見解は大幅に改訂されている(例えば「低出生体重児に対しルーチンに酸素投与を行ってはならない。酸素は全身のチアノーゼまたは呼吸障害がある場合にのみ投与する。」とされている。)。酸素投与に対するこのような厳しい制限的姿勢は近時、急速に高まった本症に対する医学界の関心の表れである。もとより、本件診察当時にはこのような知見は一般小児科医、産科医の知るところではなかったものである。

(イ) 酸素投与と本症との関係

前記のとおり、今日では、酸素は本症発生の誘因の一つにすぎず、未熟児の網膜が未熟であることが素因(絶対的原因)になるとされている。したがって、酸素が本症発生の原因であると断定できない以上、本症防止のみの見地から酸素管理をとらえることは適当でなく、前記の未熟児に対する酸素投与の必要性をも勘案して酸素管理の内容を検討すべきものである。

(ウ) 酸素投与量に関する基準

前記のとおり、本症は網膜の未熟性にその素因があるのであるから、極めて個体差が大であり、投与すべき酸素濃度について一般的基準を確立することは実際上困難である。酸素濃度四〇パーセント以下というのが昭和三〇年代から提唱されている一応の目安であるが、これとても絶対的なものではない。特に呼吸障害のある未熟児に対しては高濃度の酸素を与えないと死亡や脳性麻痺という重大な結果を招く危険があるため、必要に応じて四〇パーセントを超える酸素を供給すべきであると考えられている。本症研究に関する先進国であるアメリカの小児科学会も「できれば酸素濃度は四〇パーセントを超えないように」と勧告しつつも「眼に傷害を与える可能性があるからといって、酸素の任意の使用(そしておそらくは生命をも)を否定するのは賢明でない。」と述べている。因みにアメリカでは、早くから保育器が普及し、未熟児の生存率が高まるとともに、本症が多発し、乳児失明の最大の原因として注目を集めた。そのため保育器内の酸素濃度を低くしたところ、失明児は減少したが呼吸障害児の生存率が低下し、同時に脳性麻痺や精薄が増加したという歴史的事実がある。したがって、酸素濃度や投与期間の決定は、酸素の大量かつ長期投与を行って児の生命を救いかつ、脳性麻痺や精薄を予防すべしという要請と、酸素濃度を抑え本症発症を予防すべしという要請との調和をいかにしてはかるかという極めて困難な問題を提起する。

ところで、この調整の実務上の困難さは次の諸点に特に強く存在する。

本症発症の誘因となる酸素とは保育器内の酸素そのものではなく、児の肺から血液中に摂取された酸素、つまり動脈血中酸素である。高濃度の血中酸素が未熟な網膜を刺激して発症の引き金となるのであるから、真に問題とされるべきは器内酸素濃度ではなく動脈血中酸素分圧と網膜の未熟性の程度である。いくら器内酸素濃度が高くとも児の呼吸機能が不十分であれば血中酸素分圧はさして上昇しないことになり、また器内濃度が低くとも呼吸機能が十分であれば血中酸素は相当の濃度に達することになるから、血中酸素分圧は児の呼吸機能の状態と器内酸素濃度という二つのファクターにより、影響を受けるといえよう。したがって、器内酸素濃度による酸素管理は、本症の予防策として、直接的なものではなく、その意味では一分間の酸素流量による酸素管理と五十歩百歩である(したがって、器内酸素濃度を測定しないから、直ちに、過失があるとはいえない。)。本症の予防策の一つとして、理論的に理想と考えられるのは、動脈血中酸素分圧による酸素管理である。しかし、動脈血中酸素分圧を頻繁に測定することは技術的に困難である。近時、これを経皮的に簡便に測定できる機械が外国で開発されたが、著しく高価であり、現在でも我国の先進的医療機関が試験的に輸入して試用している段階であって、一般の病院でこれを実用に供する段階にはない。しかも、先進的病院で、この機械により継続的に測定した実例によれば、器内酸素濃度が一定していても、血中酸素分圧は、時々刻々激しく変化することが判明している。このような複雑多岐な変動に即応した酸素管理を行うことは、実務上はなはだ困難であるといわねばならない。

因みに、血中酸素分圧の代りにチアノーゼを指標として酸素の増減を決すべきであるとの説がある。なるほど、チアノーゼの有無や程度も酸素管理の目安の一つとしての意義がないわけではない。しかし、小児科医の中には、皮膚の色が良く、視診上チアノーゼが認められない場合でも低酸素症が起りうることを指摘するものもいる。医師が患児に視診上チアノーゼがないから、血中酸素濃度は十分だと安心していると、脳に障害を生ずる危険がある。むしろ、チアノーゼの発現を待つことは病状を悪化させ、死亡率を高める結果となる場合すらある。

したがって、チアノーゼを血中酸素分圧に代わる酸素管理の指標として全面的に信頼するわけには行かない。

他方、児の網膜の未熟性の程度により酸素管理を行うことも理論的には一つの理想であるが、網膜の未熟度を判別する方法が確立していない。従来の本症研究の成果として、在胎期間の少ない児に本症を発症する児が多いらしいといわれているが、同じ在胎期間の児であっても、網膜の成熟度には個人差があるから、在胎期間や体重などの客観的数字のみで未熟度を判別することは到底不可能である。

今日においても、酸素投与に関し、「一応四〇パーセント以下」というような大まかな基準しか存在しないのは右の理由による。未熟児に対する酸素投与量及び期間につき一般的基準の設定は困難である。要は当該未熟児の皮膚の色、呼吸状態、体温その他全身的症状、在胎週数、体重等を考慮し、主治医が、自己の臨床経験に基づき、臨機応変の個別的判断を下すほかはない。かような意味で、主治医の臨床的選択裁量の範囲は広く認められるべきである。

(エ) 原告らの主張する酸素管理の基準について

原告らが酸素管理の基本として掲げる四項目が、昭和四五年当時確立していたとの主張は、すべて争う。

(a)の全身チアノーゼ、高度呼吸困難があるときにのみ酸素を使用するというような著しく制限的な見解は、今日においてすら、確立しているとはいえない。

(b)の「少なくとも四〇パーセントより高くしない」という見解も、今日でも確立していない。症状により、必要があれば、場合によっては四〇パーセント以上の酸素の供給もやむをえないと考えるのが通説である。

(d)の「頭部近く」を測定するとの点は現在の実務上、頭部のあたりを測定することが多いだけであり、必ず「頭部近く」を測定しなければならないとまで断定する見解は、今日でも確立しているとはいい難い。また「測定すべきこと」も四五年当時には未だ常識となっていたとはいえない。そもそも、昭和四五年当時には、信頼できる濃度計の入手は困難であり、当時最も信頼しえたベックマンの濃度計は北海道内のいずれの医療機関にも備え付けられていなかった。

(3) 眼底検査

今日、眼底検査が本症の早期発見のための手段であることは間違いない。しかし、発症の危険の多い未熟眼底では、ヘイジィメディア(硝子体混濁)が一か月以上も続くものが多く、眼底検査を満足に行いえないから、今日でも本症予防の観点から、酸素療法や全身管理のモニターとして眼底検査を利用することはできない。

更に、本件各診療当時、小児科医及び産科医の間では、未だ原告ら主張のような眼底検査に関する知見は確立しておらず、眼科的管理の必要性に関する知識も全く普及していなかった。また、眼底検査は本症に対する有効な治療法と結びついてのみ医療行為としての意義を有するが、本件各診療当時においては、本症の有効な治療法は確立しておらず、少なくとも、有効な治療法の存在が小児科医、産科医の平均的認識となるには至っていなかった。更に、当時、被告ら各医療機関には未熟児に対する眼底検査をなしうる技能をもった医師もいなかった。

(4) 光凝固法による治療

(ア) 原告らは、昭和四五年五月当時には、光凝固法が本症の治療法として確立していたか、少なくともその有効性が一般に承認されており、遅くとも昭和四六年には有効性の確立のみならず同法による治療が日常化していた旨主張するが、同法は現在に至るも本症の治療法として確立されてはおらず、未だ追試段階にあるばかりか、近時はその有効性に対しての疑問が多く寄せられている。

(イ) 新治療法の開発に関する医学界の基本的な考え方

一般に医学界において新治療法を開発したとの発表がなされた場合、医学界では失敗例は積極的に報告されないのが通例であり、その検討は公開の学会で行われないこともあって、数年の間に有効説が追試として増える傾向があるが、症例を重ねて行くにしたがって、具体的データによるその否定説や疑問を呈する考え方が増加し、その経験科学的な実証に耐えたもののみが存続して行くのが実態である。

したがって、治験例が発表され、追試例が報告されても、それは直ちに有効性としての有意差を必ずしも反映するものではない。失敗又は否定型データの検討を含めた経過を待ってはじめて、落ち着いた考え方が熟成されるのである。これは光凝固法による本症の治療についても同様である。

(ウ) 光凝固法による本症治験例の発表とその後の展開

(a) 光凝固法を本症の治療に最初に応用したのは天理よろづ相談所病院の永田誠医師である。同医師は、昭和四三年に医学雑誌上に、同法を試みた二症例を発表し、病勢の頓座的停止を見たとした。その後、同法の応用については、有効説が増加し、昭和四七年には、永田医師の過去五年間にわたる光凝固法による治癒例として二五症例が発表された。

永田医師の昭和四七年度の論文では左のごとき表現が見受けられる。

「……今や、未熟児網膜症発生の実態はほゞ明らかとなり、これに対する治療法も理論的に完成したということができるので、今後はこの知識をいかに全国的規模で実行することができるか、という点に主たる努力が傾けられるべきでないかと考える次第である。……」(永田誠「未熟児網膜症の光凝固による治療Ⅲ」。「臨眼」二六巻三号)

(b) しかしながら、このような見解は、有効説が頂点に達した時期のものであり、そのあと生育率の向上や眼底検査の普及により永田医師の対象児より更に低体重児の救命が可能となるにつれて、次第に右の永田医師の有効説に対する疑問が呈されてきたのである。すなわち、永田医師が遭遇しえなかったⅠ型以外の治療困難な事例が眼科学会において報告され、永田医師の診断・治療基準に該当しない例に、多くの医師が悩むような事態が生じたのであった。

前記厚生省の研究班員である福岡大学大島健司教授や元国立小児病院眼科医長森実秀子医師は、本症について昭和四七年ころからオーエンスその他今までのどの分類にも入らない激症型、必ず失明する非常に重症な例(厚生省報告にいうⅡ型ないし混合型)が出現するようになったこと、このタイプについては当時遭遇した研究者が少なく、診断基準すらなかったこと、このタイプには光凝固法を施しても治らないことを各医師が経験したこと、この見地から永田医師が昭和四七年に発表した二五症例は、全例自然治癒が非常に多い今の厚生省の基準でいうⅠ型であり、Ⅱ型や、混合型のように、必ず失明する非常に重症な例が一例も入っていないことを明らかにしている(大島健司の福岡高裁昭和五三年(ネ)第六六五号事件における昭和五五年七月一四日の証言。森実秀子の浦和地裁昭和五三年(ワ)第八〇二号事件における昭和五七年四月一四日の証言。森実秀子「未熟児網膜症第Ⅱ型(激症型)の初期像及び臨床経過について」「日本眼科学会雑誌」八〇巻一号。)。

(c) 前記昭和四九年度厚生省の本症特別研究班が昭和五〇年に発表した研究報告は、右のような学界の情勢を顕著に反映している。同報告は、診断基準について次のごとく述べている。

「……未熟児網膜症の臨床経過は多様であり、その分類を行うこと真に困難であり、従来、臨床経過の分類にはスツェベチック・リーズ・リース・オーエンス・バッツらの人々による分類法があるが、一九五三~五四年時代のものが大部分であり、バッツのように修正を加えてきているものもある。わが国では主にオーエンスの分類に準拠して研究者は発症率・自然治癒率・光凝固・冷凍凝固の適応・限界などを論じてきたが、研究者間においてこの分類法に準拠することに不都合な点が多いことが論議され、その一つの現われが植村らの提案した新分類法であったといえる。

治療時期が社会的な問題にまで発展してきたこともあり、網膜症研究班において、臨床的経過の分類の基準の検討を行うこととした。……(中略)……光凝固・冷凍凝固の登場に伴い、その適応・限界を定めるうえで、眼科医の間に、その病期が必ずしも一致しておらず、これが社会的にも混乱を招く一因ともなった……」

右の記述からも明らかなとおり同報告がなされた当時は、Ⅱ型、混合型については大前提であるそのような分類を本症に認めるべきか否か自体が問題とされていたのである。存在が認められていたⅠ型についても診断基準に関して議論があり必ずしも統一がとれていない状況であった。したがって、Ⅱ型、混合型を含めた本症が光凝固法の適応であるか、光凝固法は本症治療に有効であるかといった問題を含めた治療基準はもちろん、右各型を含めた本症全体についての診断基準すら確立される状況にはなかった。すなわち、光凝固法の有効性は未だ学界に受け入れられていなかったのである。

(d) 因みに、右の報告がなされてのち、約一〇年を経て、昭和五七年に第二次未熟児網膜症研究班の報告書が作成された。これは、前記大島、森実両医師の研究の成果であった。

厚生省特別研究班の班長である植村医師はその論文中で次のように述べている。

「……Ⅱ型網膜症の眼底所見については、厚生省未熟児網膜症の診断基準では不十分な点があるので、この点について研究班では次のような補足を加えることにした。まず、Ⅱ型の確定診断として赤道部より後極側の領域で、全周にわたり未発達の血管尖端領域に異常吻合および走行異常・出血などがみられる。それより周辺には広い無血管領域が存在する。網膜血管は血管帯の全域にわたり著明な蛇行怒張を示す。以上の所見を認めた場合、Ⅱ型の診断は確定的になる。進行と共に網膜血管の蛇行怒張はますます著明になり、出血・滲出性変化が強く起こり、Ⅰ型のような緩徐な段階的変化をとることなく、急速に網膜剥離へと進む、あるいは進行が急速なこと、hazy mediaのため確認できない。

網膜剥離はⅠ型が主として牽引性剥離であるのに対し、Ⅱ型は滲出性剥離が主体である。Ⅱ型とⅠ型との間にはいずれも同一スペクトルの上にのっているものもあり、従来の酸素を自由に使用していた時代には比較的体重の大きい児にもⅡ型・中間型がみられたが、現在のようにPaCz値でモニタリングしている時代ではⅡ型は未熟性の強い超未熟児に高率にみられるようになった……」「……Ⅰ型・Ⅱ型に限らず、未熟児網膜症に対する光凝固については米国学派はControl studyのないことから依然として批判的である。今回のRop Conferenceにおいても冷凍療法に関してはカナダ・イスラエルからの報告はあったが、光凝固に関しては永田の報告だけであった。

Ⅱ型は放置すれば網膜剥離に進むことは明らかであり、わが国では、他に治療方法のない現在では光凝固を早期に行ない、可及的に網膜剥離を防ぐべきであるという意見が多くの人々に認められている。しかし、眼科医ならば誰でもできるというものでは決してない。光凝固と未熟児網膜症の両方に経験と技術を持つ眼科医が治療をすることによって始めて成果をあげうるものである。しかも光凝固を繰り返し行う症例も多く、それでもおさまらず、硝子体手術を行うことによって初めて目的を達する例もある。このように難治なものであることを銘記しておくべきである。

したがって、このような経験と技術をもった眼科医のいない施設においては超未熟児を収容したら発症に備えて転送できる準備を予め整えておくことも必要である。厚生省、未熟児網膜症研究班においては、本年度よりⅡ型の光凝固のProspective, studyを開始すべく準備中である。これによってⅡ型の光凝固の効果が評価されることになると考えられる……」(植村恭夫「超未熟児の眼科的管理」「周産期医学」一二巻一〇号。)

この第二次厚生省特別研究班の報告によって真に失明に至る重症未熟児網膜症に対する診断・治療基準が一応示されたとはいえるものの、それは適応として行うべきであるとはいえても、有効性の評価はまだ定まらないのが現状である。そして、また、この第二次厚生省研究班の診断・治療基準が永田医師の最初の治験例の発表より約一五年を経て作成されたということは、何よりもそれまでの診断・治療基準が不明確であったことを如実に示しているのである。

(e) 以上のように、本症に対する光凝固法による治療については、今日でも、最も治療の必要性の高いⅡ型ないし混合型に対する有効性の評価が定まっておらず、この点ですでに治療法として確立されるに至っているとはいい難い。更に永田医師らが成功例とするところの同法による治療例についても批判が生じている。その一つは、永田医師による同法の本症に対する応用がいきなり人間に対して直接行われた点である。新薬あるいは新しい治療法が理論的に有用である可能性を生じた場合、危険を避けるためにまず動物実験によってその有効性と副作用を反復検討する。ところが、光凝固法の本症に対する応用に際しては、この過程が全く省略され、動物実験によるデータが欠如している。臨床実験の結果のみでは有効性を認めるには不足であるというのである。その二は外国の客観的判定法よりの批判である。

ワシントン大学のカリーナ博士は、「……血管新生の破壊を目標とした光凝固法・冷凍療法が研究されているけれども、R・L・Fの増殖期病変に対して実証的な治療法は確立されていない。外科的治療法は本症の合併症ことに網膜剥離の防止に有効と考えられる。R・L・Fの相当数の症例が光凝固あるいは冷凍療法のいずれかで治療されたことが日本の文献に発表されている。これらの報告例の治療方法の有効性は修正病型分類が用いられていること、および多数例で両眼が同等に治療されていることなどのために、その評価が全体的に困難となっている。

なぜならば、少くとも治療された眼のいくつかに於いては自然治癒例が含まれていると考えられるからである。治療効果を予測してこれまでに行われてきた臨床実験は、R・L・Fに対する光凝固又は冷凍凝固療法の治療上の価値を結局は証明してはいない。これらの治療法には危険を伴うこと、本証が自然治癒傾向の強い疾患であること、などの理由により将来この研究がなされる可能性は少ないものとなっている。増殖期のR・L・Fに対しては確立された治療法はない……」と述べている(Surv Ophthalmol 24(4) January・Feburary 1980 p 231)。

因みに、アメリカにおいては、バッツが実験的に試みた以外、光凝固法は用いられていないようである。

また、わが国においても、未熟児網膜症に対する光凝固法に対して、重要な問題点があり、特に未熟児の眼底であることを指摘して成人のそれと全く異なる立場を強調している日本眼科学会宿題報告の論文がある。

「……治療学としての光凝固を安全有効に実施するためには高度の診断技術が必要であるが、螢光眼底造影を駆使できることが光凝固にたずさわる者にとっての必要条件であることは、ここにあらためて強調するまでもない。光凝固そのものが顕微鏡手術以上の精度で行われる治療法であるだけに、疾患の診断および経過の追跡にあたっても毛細血管レベルでの観察精度が当然要求される。

更にわれわれが常に留意し、自制しなければならないのは、光凝固の効果判定にあたっては、自然寛解と治療効果とを明確に分けて判断すべきであるという原則である。

本来、自然治癒の傾向が強かったり、停在性である疾患に対して光凝固を実施すれば当然のこととして高成績の治癒率が得られる。よしんば不必要な侵襲であっても無害であればよいのであるが、すくなくとも有害であってはならない。この点に関してわれわれがつよく危惧するのは未熟児網膜症の光凝固である。未熟児網膜症の眼底変化が発見されても、それが高度の視機能障害にまで進出の例はごく少なく、大部分は自然寛解するものである。ところが、軽症の網膜症であっても、これに光凝固を行うと、耳側周辺部の浮腫混濁・白色の境界線とこれに接する網膜血管の拡張などは急速に消褪を開始し、一週間から一〇日も経過すればほとんど「治癒」した状態になる。したがって、中心性網膜炎の場合と同様に放置しておいても時間さえかければ自然寛解する筈の疾患をより短時間で確実に治癒の状態に持ちこむといういわば「時間をかせぐ治療」法であるともみなせるものである。

もし、光凝固が全く無害であれば、このような罹病期間を短縮させるだけの治療法もそれなりの価値があるのであるが、こゝで成人の眼と乳児の眼とは全く別の問題があることに着目されなければならない。新生児から成人になる間に、眼球は、平均眼軸長が一七mm~二四mmへと発育する。この際、比較的発育が完成に近い状態にある角膜や水晶体などが前眼部よりも眼球後半部の諸組織の方が発育する量が大きいのみならず、強膜・脈絡膜・網膜それぞれが平行して発育するという保証は全くなく、むしろ鋸状縁の特有な形が示すように、乳児期から成人に到る期間に、これら諸組織の位置関係の変動することが生理的に必要である可能性がつよい。

先天性トキソプラスマ症などで、周辺部眼底に網脈絡膜瘢痕形成があるとその方向に向かう鎌状網膜剥離ablatio falciformis conqeuitaや黄斑偏位が起こる場合があり、眼球の発育が完了する前に光凝固の瘢痕により網膜・脈絡膜・強膜の相互間の位置関係を固定することにより、将来大きな問題の生じる可能性がつよく危惧されるのである。

この問題に対する解答は、すでに治療を受けた患児らが成人になる一〇年から一五年以上経過した将来に得られるであろうが、乳児期の光凝固にはこのような、われわれには、未知の障害が起り得ることが認識されなければならない。乳児への光凝固は原則的には好ましいものではなく、未熟児網膜症による失明を免がれるための緊急避難と考えられるべきなのである。……」(宿題報告・「光凝固に関する諸問題」清水弘一((群馬大教授))野寄美春))埼玉大学眼科学部室))坂上英((愛媛大学眼科学教授)))。

右の見解は、光凝固に関する諸問題について日本眼科学会の要請をうけたテーマについての宿題報告である点が殊に重要な点である。

植村教授もこの点に関し、「……昭和五二年度の日眼総会の光凝固に関する宿題報告においても、本症に対する光凝固はあくまでも緊急避難的なものであるとの見解が示された……(中略)……光凝固法の出現当時、網膜症を早期に発見し、早期に治療すれば、すべての症例は治癒するかのような報告がみられたが、その後、一眼を光凝固し他眼を治療せずに比較検討した結果、ほとんどの症例は最終的には正常化し、光凝固例には永久的瘢痕が残った、という結果や、Ⅱ型に対する治療成績の不良をめぐる論議が出るなどしてその治療法にも批判が外国からも出され、本格的な再検討の時代になった……」(植村恭夫「未熟児網膜症」「産婦人科MOOK」一九八〇年九号。)と述べている。

(f) 以上述べたところから明らかなように、医学的な評価は、新治療法開発の時点では有効説が相次いで発表されるが、その後、批判的見地からの報告・研究が出て、経験科学的に検証されたうえ、具体的な評価が定まってゆくという経過をたどるものである。光凝固法による本症の治療についていえば、当初の有効説は、動物実験及び対照研究の不存在、Ⅰ型患児に同法を施すことの必要性に関する疑問、未知の副作用の懸念等の諸点において批判され、更に必ず失明に至るので治療の必要性が高いとされるⅡ型等の網膜症に対する治療成績の不良が論議され、再検討の時代に入ったといえる。

(エ) 光凝固法の手技的危険性

光凝固法は、いわゆる光のメスともいわれるもので、光によって未熟な網膜の組織を焼灼して破壊する手法である。したがって、もし過って乳頭黄斑線維束、黄斑部を照射すれば視力は永久的なダメージを受け一瞬にして失明を抱く危険性をもはらんでいる。それ故、眼科においては、同法は熟練を要し、慣れない者が行うのは非常に危険であるとされている。更に、同法の副作用については動物実験の欠落等により、存否・内容ともなお不明確である。これらの点からしても、光凝固法の濫用的施行は厳に慎まなければならない。

(5) 未熟児網膜症の予防・治療と医療水準の設定

原告らは、原告一郎、原告秋夫及び原告梅子の出生当時において本症に対する治療法として光凝固法等がすでに確立していた旨主張し、更にそのことを前提とするかの主張を展開している。

しかしながら、ここに改めて再説するまでもなく、昭和五〇年までの臨床実験や追試の状況、診断・治療基準の内容、更に光凝固法に対する評価とその限界等を併せ考えれば、原告ら三名の各出生当時のいずれの時点を捉えてみても、一般的な医療水準に達していたといいうる本症に対する治療法が確立していたとは到底いいえない。臨床実験ないし追試段階にある症例の発表報告を特に取り上げ、これをしなかったから過失だという議論は、医療の本質と実態を真に理解されない暴論である。

原告らの主張は、「学問としての医学水準」と具体的可能性のある「実践としての医療水準」とを混同した議論であって、これを採用するに由なきものである。

いわゆる医学水準とは、「学問としての医学水準」と、具体的可能性のある「実践としての医療水準」とに分け、両者は明確に区別して考えなければならない。被告らがこれまで述べてきた一般的医療水準とは後者の場合を指している。一般に臨床医学に関していえば、専門の学会や学会雑誌に発表される内容と、わが国における一般的な医療水準との間にはかなり大きな隔たりがあることを指摘しておかなければならない。

元来、学会や学会雑誌には、所属会員であれば、自己の仮説、私見、症例報告、治験例(臨床実験)等はだれでも自由に発表することができ、これらの発表内容は将来、学界の共通事項として批判の対象となり、反対意見で否定され、やがて消え行く運命にあるものもあれば、学界の一致した見解として不動のものとなるもの、更に具体的な前提条件を徐々に備え、はじめて定着するものなど様々の帰趨を辿るものなのである。

したがって、学会発表の内容をそのまま無批判に日常の臨床に応用することは妥当でなく、かえって、医療の基本にふれる問題がある。大方の見解が一致した段階で広く普及が計られるのが常道である。しかもこれが人的・物的体制の整備と相まって具体的可能性のあるものとして日常の診療に応用されるに至ってはじめて「一般的な医療水準」といえるわけである。本症の治療法についてもこの原則を前提とした議論が展開されなければならない。

「学問としての医学水準」は、研究水準又は学界水準といってもよく、将来において一般化すべき目標の下に現に重ねつつある基本的研究水準を意味する。これに対し、具体的可能性のある「実践としての医療水準」は、実地医療としての経験水準もしくは技術水準を含むものである。つまり、一般的医療水準とは、学問としての医学水準に達しているものを、医療の実践として普遍化するために、あるいは普遍化しうるや否やを知るために、更に多くの技術や施設の研究、経験の積み重ね、時には学説の修正をも試み、ようやく専門家レベルでその実際適用の水準としてほぼ定着したものとして捉えられるべきである。それは動物実験に始まる四つの段階的過程を経た上で定着するものである。

そして、一つの治療法をめぐり臨床医学が基準とすべきものは、あくまでも行為当時における通常の医師のそれである。種々の医学的実験を経た後、臨床医の間で多くの追試が行われ、教育・訓練も経て、その結果、普遍的なものとして是認、支持されたものでなければならない、一部の特殊分野における専門家のみが所有し、未だ医学界全体の共有財産になっていない医学知識を基準とすることは相当ではないと解すべきである。

これを本件についてみれば、本症の「治療指針」となるべき診断及び治療基準は現在でも未確立である。一応のものという前提で示された厚生省研究班の報告にしても、第一次報告は、昭和五〇年三月である。特に治療が必要とされるⅡ型等に対する検討結果を中心とした第二次報告がなされたのは昭和五七年である。それまでは本症の研究者らは本症の臨床像の多様から各人各様の臨床分類や光凝固、冷凍凝固の時期を設定して研究を続けてきたというのが実態である。しかも本症の自然治癒率が八五パーセントもの高率を示していることと本症の病型が徐々に明らかにされるに及んで、光凝固法についてこの分野の専門的研究者の間でさえ種々異論がありその評価もまちまちで、治療上の限界が唱えられているというのが現状である。特に本症Ⅱ型について未解決の問題が山積している。なお、永田医師が光凝固術及びその実験・追試結果を発表した昭和四三年、四五年、四七年当時にあっては、いまだ厚生省研究班の報告にみられるⅠ型、Ⅱ型、及び混合型の病型分類はなく、また現在、本症の治療の焦点といわれるⅡ型の臨床像については全く明確にされていなかったのである。

以上のとおりであって、原告一郎、原告秋夫及び原告梅子の出生当時においては、本症に対する診断及び治療は、まさに試行錯誤の段階にあったといってよく、その他、人的物的設備の点も含め、いまだ実地医療として一般化、普遍化していなかった。かくして、光凝固法という一つの治療方法が提唱されたこと、即失明児の根絶でなければならない、とする原告らの発想は、短絡にして、かつ危険であり、逆に人体実験を慫慂することにもつながることを銘記すべきである。

要するに、原告らの主張は、医療の本質とその実態を無視した不当なものといわざるをえない。

3  被告小樽市の責任原因について

(一) 診療経過

(1) 原告花子は、昭和四五年一月一六日から小樽市立病院産科で妊娠の定期検診を受けるようになった。同年四月六日(妊娠二五週時)に性器出血のため受診した。その際、産科の医師から前置胎盤の疑いありとして入院を勧められたが、入院しなかった。同月二四日にも性器出血があった。同年五月一日胎児撮影で全前置胎盤との確診を受け、同月一九日入院した。同月二七日午前三時ころ破水し、同日午前五時半に、緊急帝王切開により分娩した。児(原告一郎)は、在胎三二週、体重一九八〇グラム、アプガールスコア五点であり、直ちに同病院小児科に移された。なお、アプガールスコアとは、出産時の状態を評価するため、心拍数、呼吸、皮膚色などの各項目につき得点をつけて合計点数で表示するものであり、最良の状態は一〇点である。

(2) 原告一郎は、昭和四五年五月二七日午前五時半、同病院小児科に入院した。小児科での計測では、体重一九八〇グラム、体温三四度であった。呼吸は不規則、顔面四肢にチアノーゼがあった。直ちに保育器に収容し、酸素毎分三リットル、器内温度三〇度、湿度七〇パーセントにて保育を開始した。

(3) 入院中の主たる治療内容

(ア) 新生児メレナ防止のため、ビタミンKを投与した。

(イ) 栄養補給は、生後三〇時間より鼻カテーテルにて開始した。生後一四日目体重一六八〇グラムまで継続した。一五日目より自力経口哺乳とした。因みに、出生後低下した体重が生下時体重まで回復したのは同年六月二一日(生後二六日)ころである。生下時体重が二〇〇〇グラム程度の新生児は生後一〇日目前後に生下時体重に戻るのが普通であるから、原告一郎の体重復帰は順調であったとはいえない。

(ウ) 生後三日目より黄疸があらわれる。ビリルビン値は、測定の結果、第四日目九・二ミリグラム、第六日目八・一ミリグラムであった。ABO不適合による重症黄疸に発展する可能性があったため、コートロシンZを投与した。

(エ) 体重増加促進のため、蛋白同化ホルモン(ジュラボリン)を投与した。

(オ) 一五日目に右耳介後部に小膿疱があった。菌を培養し、セファレキシンを投与した。

(カ) 低体温が持続した。第三週まで直腸温三四度ないし三五度台のことが多く、かつ、四肢、口囲のチアノーゼが持続した。そのため、酸素は毎分三リットルの投与を続けた。同年六月二三日午前一〇時に投与を中止した。

同月三〇日保育器より出してコットに移した。

(4) 同年七月二三日体重三四〇〇グラムにて退院した。

(二) 原告一郎の主治医の義務違反について

(1) 全身管理義務違反について

(ア) 原告らは未熟児の全身状態を良好に保つことによって本症を予防でき、仮に発症しても自然治癒することができると主張するが、これが何の医学的根拠のない主張であることは前記のとおりである。したがって、本症の予防・治療との関係で、医師が全身管理義務を負うことはない。

以下、更に、原告らが不適切であったとする点について反論する。

(イ) 体温管理について

原告らは、原告一郎の主治医が、当初保育器の器内温度を三〇度としたのは低過ぎると非難しているが、右措置は馬場らの保育環境表(日本大学教授馬場一雄著「未熟児の保育」昭和四一年発行・所収)にしたがったもので、当時はこれ以外に目安とすべきスタンダードはなかったし、他方温度を上げ過ぎることに対する警戒が極めて強く、馬場らの表以上に温度を上げるには勇気を必要とした時代であった。原告らは、器内温度を少なくとも三二度ないし三四度とすべきであったというが、当時わが国ではそのような積極説は、通説とはなっていなかった。

(ウ) 酸素管理について

(a) 原告一郎に対する酸素投与期間は、昭和四五年五月二七日午後五時半ころから同年六月二三日午前一〇時までの間で、投与量は毎分三リットルであった。

(b) まず、原告らは原告一郎には酸素投与の適応がなかったと主張する。

しかしながら、原告らが主張するような酸素管理の基準は、昭和四五年当時、確立されたものではなかった。したがって、小樽市立病院では、最初の数日間はルーチンに酸素を用い、その後は症状に応じて酸素を継続するかどうかを決めるというやり方をとっていた。そして、原告一郎の場合には、特に初診時において、前記のごとき病状にあり、出産時のアプガールスコアも甚しく悪かったから、医師は、直ちに毎分三リットルの酸素投与を必要と判断した。

また、その後も酸素投与中にもかかわらず、しばしばチアノーゼが発現するうえ、低体温が持続し、生後第三週までは直腸温(これは皮膚温より〇・五度程度高い温度である。)で三四ないし三五度台のことが多く、その他呼吸や一般状態をも総合勘案すると、酸素中止はもちろん、減量もできず、第四週の末日(六月二三日)に至った。途中、第三週後半から五日間視診上チアノーゼを認めない時期があったが、この時も直腸温三四・九ないし三六・二度であり、一般状態も悪く減量や中止には踏み切れなかった。その後第四週に入ってまたチアノーゼが発現していることからみても、前記の時期に油断せずに酸素投与を続けたことが適切であった。

六月二三日には、体温や皮膚色も良好であり、その他の一般状態も考慮して、試みに午前一〇時より酸素を中止し、様子を見ることにした。翌日より再びチアノーゼが発現したが、直腸温も上昇傾向にあり、全身状態もさほど悪くないので酸素投与を再開せずに、チアノーゼの増強を監視していた。チアノーゼは、更に二五日まで持続したものの、増強することなく消失した。

因みに、アメリカの小児科臨床雑誌アーカイブ・オブ・ディジーズ・イン・チャイルドフッドの一九六六年四一巻二五頁には、「低酸素症のベビーが常にチアノーゼを示すとは限らない。何か(酸素欠乏を示す)別の情報が必要であり、我々は直腸温をモニターすることにより、この情報が得られると信じている。直腸温は児の酸素要求のガイドとして使える。」と書かれており、また、同三二頁には結論として「ベビーの熱産生能を計ることにより、高酸素環境を必要とするか否かを判定することができる。そして直腸温を計ることにより熱産生能を間接的に知ることができるので、この情報は臨床的に価値がある。」と述べている。酸素投与に際し、直腸温を重視すべきことは、本件診療当時も今も日本では余り論ぜられていないようであるが、熱産生能の低下は、まさしく、酸素投与の必要性を意味するものであり、本件診療に際し、担当の小児科医達が、患児の直腸温を酸素投与に関する一つの重要な指標としていたことは極めて正当であったといえよう。

原告らは、その主張に係る酸素管理の基準の中で「症状が好転したら速やかに酸素濃度を低下させ、供給を停止す」べきである旨主張している。しかし、視診上、呼吸困難やチアノーゼが認められないからという理由だけで他の全身状態を無視して直ちに児の酸素要求(つまり酸素不足)が解消していると判定し、酸素を減量、中止してもよいと考えるのはあまりにも機械的でありすぎる。未熟児は、チアノーゼがなくとも低酸素症になっている場合もあるし、外見上、呼吸困難がなくとも、呼吸機能が健全とはいえない場合もある。原告ら主張のような単純な考え方で未熟児保育をなしうるものなら、今日の未熟児保育を担当する小児科医が看護婦とともに寝食を忘れて悪戦苦闘しても、なお、未熟児の救命に成功せず、医学の無力を嘆くというケースが珍しくないという、今なお厳しい未熟児保育医療の実態は、ありえないことであろう。原告らの主張は生命の確保や脳の障害の予防を無視し、生命や脳を犠牲にしても、目だけを守れば足れりとするものであり、臨床医の賛同は到底得られないところである。

(c) 次に濃度測定を含めた濃度管理について述べる。

本件診療当時、一般臨床小児科医の間では「酸素濃度を四〇パーセント以下に押えることにより水晶体後部線維増殖症の発症を防ぎうる。」との認識が一般的であった。そして小樽市立病院では後記使用説明書に基づき毎分三リットルまでの酸素投与では、器内濃度は四〇パーセントに達することはないとの認識のもとに、患児の病状に応じて三リットル以内の酸素投与を行っていた。

小樽市立病院で当時使用していた保育器の使用説明書における酸素流量・濃度相関表によれば、酸素を毎分三リットル投与したときの器内酸素濃度は三三ないし三七パーセントになるとされている。そして小樽市立病院での実験及び使用経験によれば、実際には、右相関表記載の範囲内の濃度か、ややそれを下まわるデータが出ており、右相関表にしたがって、流量によって酸素を管理しても、器内濃度が相関表記載の濃度を上まわるという危険は全くないことが確認されている。因みに、説明書には「器内濃度を測定する必要があります。」との記載があるが、その目的は「酸素治療効果を確実にするため」とされており、その趣旨は、児の処置等に伴う保育器の窓の開閉操作等により器内酸素濃度が低下し、期待された酸素濃度に達しない結果、「酸素治療効果」が十分に得られないことを警戒するため、濃度測定を必要としているものであって、期待された酸素濃度よりも高濃度になる場合を警戒する趣旨ではないのである。

小樽市立病院における本件患児保育の際に流量のみで酸素を管理し、器内酸素濃度を測定していないのは次の理由による。前記のとおり、高濃度になりすぎることを警戒するために濃度を測定する必要はないが、予定された濃度に達していることを確認するための測定は望ましいことである。そこで同病院でも前記使用説明書記載のアトム簡式酸素濃度計を昭和四四年六月に購入し、同年中は使用していた。この計器は直読式ではなく、あらかじめ測定液(苛性カリとハイドロサルハイドの混合液)を作り、これに定量注射器で採取した保育器中の気体を送り込み、酸素を測定液に吸収させ、気体の容量の減少で目盛ゲージが下降する度合により、酸素含有量を知る方式である。そのため測定液作成から測定結果の判明まで時間と手数を要するうえ、定量注射器及び測定器本体が完全密閉になっていないと気体がもれ、目盛ゲージがどんどん下降して著しく不正確な測定値となる。小樽市立病院での使用経験では器外の空気を測定しても四〇パーセント、五〇パーセントといった非常識な測定値が出たことがあったため計器に対する信頼を失い、昭和四四年末ころから使用をとりやめた。

その後、信頼できる濃度計を探していた。昭和四五年夏ころ直読式の酸素濃度計(テレダイン社製)が輸入市販され始めたので、高価ではあったが、早速、同年一〇月に購入し、使用を開始した(これは多分、道内でも最も早く直読式を採用したケースに属するはずである。)。したがって、小樽市立病院における本件患児保育の際には、信頼できる濃度計を入手しえない段階であった。

また、原告らは、動脈血中酸素分圧PO2を測定すべきであったと主張する。しかし、この測定は、一回に二ミリリットルの血液の採取を必要とし、しかも継続的に行われなければ意味がなかった。未熟児のわずかしかない血液を毎回二ミリリットルずつ取ると、たちまち貧血を生じる。未熟児網膜症の恐ろしさに対する認識がまださほど浸透していなかった昭和四五年当時、酸素投与を必要とする程状態の悪い未熟児から、貧血の危険をおかしてまで頻繁に血液を取るべきであったとすることには、到底賛成できない。また、貧血を補うための輸血をすれば、成人のヘモグロビンが血液中に入ることになるから、より多くの酸素が網膜に供給されることになって、未熟児網膜症の危険が増加することも忘れてはならない問題である。

小樽市立病院では、昭和四八年ころから、特に高濃度酸素投与を受けた未熟児に限り、動脈血中酸素分圧測定を行うようになったが、これは継続的測定ではなく、たまに採血する程度であったから、今日の、経皮的測定装置による連続的測定に比べれば、ほんの気安め程度のものでしかなかったのである。ある程度、継続して測定が行えるようになったのは、〇・五ミリリットル以下の血液で測定ができる機械が購入された昭和五一年ころ以降のことであった。

(2) 眼底検査義務違反及び治療義務違反について

前記のとおり、昭和四五年当時、本症を早期に発見するための眼底検査の必要性に関する知見は確立されておらず、人的にも検査のできる態勢をとることは不可能であった。また光凝固法による本症治療の有効性に関する知見は当時も現在も確立されていない。したがって、主治医らには、眼底検査義務及び治療義務はなかった。

(3) 説明義務違反について

右に述べたとおり、昭和四五年当時は、光凝固法の有効性に関する知見が確立されておらず、また同法を行いうるスタッフがどこに存在するのかも不分明であった。したがって、原告ら主張のような説明をしようにもできない状態であったのであるから、主治医らには、この点の説明義務はなかった。

(三) 国家賠償法の主張について

原告らは、小樽市立病院の人的及び物的施設の総合体を公の営造物として把え、保育器に酸素濃度計を備え付けていない点を瑕疵の一つであると主張するが、そもそも、濃度計付保育器などは存在せず、両者は全く別の独立した医療用機器である。また、保育器を使っても、必ず酸素を投与するとは限らないことはもちろんである。原告らは、濃度計を保育器の不可欠の部分品のように理解しているが、これは誤りである。濃度計はなくとも保育器は使用できるし、酸素の投与も流量管理によって適切になしうるのであって、濃度計を準備していなかったことが法律上瑕疵に該当するとは考えられない。もちろん、酸素濃度計があった方が望ましいこと、しかるに本件当時は遺憾ながら、信頼しうる濃度計が入手しえなかったことは前記のとおりである。

本症についての医学知識が十分でない勤務医師に診療させたとの点については、被告小樽市は、有能にしてかつ献身的な医師を雇傭していると確信しており、その医師達の医学知識が一般の医療知識水準に比較して劣後したものであったとは毛頭考えていない。

次に、各科協力体制については、本件各診療当時においては、まだ、未熟児の生命の確保自体が極めて困難な段階であり、かつ、本症の発症頻度も少なく、未熟児を取り扱う臨床医の間では、まだ、本症に対する関心が今日など高まっていない情況にあったから、原告ら主張のように、本症の予防、検査、治療のために、各科の緊密な協力体制を組む必要性は、臨床医らの間で、まだ、認識されるに至っておらず、到底そのような義務があったとはいえない。

携帯用保育器の点については、小樽市立病院においては昭和四四年よりこれを所有しており、主として他院から患児を搬送する際に使用していた。したがって、この点の原告らの主張は全くの誤解である。なお、そもそも原告らの主張に係る事柄自体が、果して公の営造物の設置管理の瑕疵に該当するのか否か極めて疑問である。

4  被告横尾の責任原因について

(一) 診療経過

(1) 原告夏子は、昭和四五年六月七日に悪阻症状があり、同年七月一六日に被告横尾の診療を求めた。被告横尾が診察したところ、原告夏子は、妊娠しており、同女が出産を希望したので、被告横尾は、即時、必要な血液検査を実施した。同女は、過去五回の妊娠経験があるが、そのうち三回は人工妊娠中絶をしており、一回は自然流産をし、最後の一回は胞状奇胎であって横尾病院で手術をした。結局、同女は一度も分娩を経験していない。

同年八月二八日貧血の治療をした。同年九月一二日から同年一〇月はじめまでの間、膣外陰カンジダ症の治療をした。

同年一二月二五日午後八時一〇分、前日夕方より腹痛と出血があったとのことで、同病院に入院した。子宮口はすでに全開大し、胎胞膨隆していた。被告横尾は、切迫早産と診断した。同日午後一一時破水し、午後一一時八分に男児(原告秋夫)を分娩した。

(2) 児は骨盤位にて分娩した。在胎二八週、生下時体重一三〇〇グラムの未熟児であった。仮死はなかったが、四肢にチアノーゼがあった。

被告横尾は、直ちに児を保育器に収容し、酸素毎分三リットルの投与を開始した。

昭和四五年一二月二八日よりカテーテル栄養を開始した。昭和四六年一月二四日より哺乳びんにて授乳できるようになった。オイルバスは同年一月五日より施行した。同年二月二五日に体重が二一八〇グラムになった。そこで、翌二六日より、保育器から新生児ベッドへ移した。保育器使用は六三日間であった。

同年三月九日体重二八五〇グラムにて退院した。なお、原告夏子は、産褥経過が順調で同年一月二日に退院している。

(3) 横尾病院においては、毎月二回定期的に小児科専門医の来院を求め、入院中の新生児及び退院後の乳児の健康診断と育児相談を実施している。そのほか、異常があるときは随時小児科専門医の往診を求めうる態勢が組まれていた。本患児に関してはカルテ記載のほか特段の異常は認められなかった。

原告秋夫は、昭和四六年三月一七日、横尾医院での右小児科専門医による第一回乳児検診の際、落陽現象があると指摘された。北海道大学眼科宛の紹介状をもらい、同大学病院の受診を指導された。患児は、同月二五日、同大学病院眼科を受診した。杉浦教授より未熟児網膜症との診断を受けた。

(二) 被告横尾の義務違反について

(1) 早産防止義務違反について

被告横尾が原告夏子の心音診察をした際、「そろそろ、しばらなければまずいな。」といいながら放置していた事実はない。また、入院を拒んだとの点について述べれば、昭和四五年一二月二日に妊娠七か月(二六週)で定期検診を行ったが、その際には何ら異常は認められず、何の訴えもなかった。その後一二月二三日にゲスタノン一日二錠五日分が投与されている。これは流早産の治療に用いる黄体ホルモン剤である。被告横尾としては、入院に伴う震動や環境変化を避ける方が適当であると判断して、自宅で安静にして経過を観察し、もし症状が増悪するようなら入院させる方針であり、その旨患家と連絡のうえ、右ホルモン剤を投薬したものである。入院を拒否したわけではない。原告夏子は、その後、一二月二五日午後八時一〇分に入院しているが、記録によると陣痛開始は同日午前四時ころである。したがって陣痛開始から入院まで一六時間も経過しており、何故そんなに長時間放置していたのか理解に苦しむ。

入院時には、子宮口はすでに全開大しており、分娩第一期の終りであった。その三時間後には出産している。原告らは「何ら手当をすることもなく」というが分娩進行中に行う手当とは何を指すのか。現代の産婦人科医学でも流早産に対する確実な治療法はいまだ確立されていない実情である。まして、分娩が始まり子宮口が全開大している妊婦の流早産を防止することなど全く不可能であった。

なお、原告らは、本件の妊娠中に、縫縮術を施すべきであった旨主張するが、子宮頸管縫縮術は、習慣性流産、特に頸管無力症の場合には有効な治療法であり、妊娠中期以降の流早産が何回も続く場合で、頸管が無力状に開大している時に行われるものであるが、原告夏子の場合には、自然流産はただ一度あるだけであり、当時は頸管無力症の事実も習慣性流産の事実も全く認められなかったのである。医療実務では、このような患者に対しては頸管縫縮術を行うにことは、まずないといってよい。この手術は適応をよく考えて実施すべきものであり、むやみに行うと障害を起すし、仮に手術自体には成功しても良い結果が得られるとは限らないのである。

その後、原告夏子は、斗南病院で、第二子、第三子の妊娠中に縫縮術を受けたとのことであるが、それはその時点で適応と認められたからである。被告横尾が第一子の出産の際に適応と認めず、手術を行わなかったのも、斗南病院が次の妊娠で適応と認めて手術を行ったのも、いずれも正当な診療であり、両者の処置は何ら相反するものではない。

(2) 転医義務違反について

被告横尾が一五〇〇グラム以下の未熟児を保育したことがなかったと非難しているが、これもまったく事実誤認である。被告横尾は、当時極小未熟児の生存例を経験したことがなかっただけで保育経験がなかったのではない。

また、早く他の病院へ移送すべきであったというが、未熟児の移送は危険もあり、決して簡単にできるものではない。当時、被告横尾の病院には携帯用保育器はなく、他の病院のものも、まだ不完全なもので、保温も十分ではなかった。

(3) 全身管理義務違反について

(ア) 本症の予防・治療との関連では医師に全身管理義務が認められないことは、「被告小樽市の責任原因について」において述べたとおりである。

(イ) また、被告横尾は、原告秋夫を保育中、自ら診察しているし、呼吸数、心拍数、体温のいわゆるバイタルサインの測定もしている。

(ウ) 酸素管理について

(a) 原告秋夫に対する酸素投与は、前記のとおり、出生直後より毎分流量三リットルにて開始し、以後チアノーゼの程度や呼吸状態、皮膚の色、その他一般状態を観察しながら徐々に毎分の流量を減量した。

昭和四五年一二月二七日午前中まではチアノーゼがあったが、午後から消失したので、酸素の連続使用を中止した。以後は授乳時や呼吸状態や一般状態が良好でない時に、その都度、断続的に毎分〇・五リットルないし一リットルの酸素を投与した。昭和四六年一月三日以後は酸素の必要を認めなかったので投与していない。

(b) 原告らは原告秋夫には酸素投与の適応がなかったと主張する。

しかしながら、原告らの主張に係る酸素管理の基準は、原告秋夫出生当時確立されていたものではなかった。原告秋夫には出生時四肢にチアノーゼがあった。これは当時の基準からすれば酸素投与の適応であり、それ故に被告横尾は直ちに酸素を投与したのである。

(c) 本件診療当時、一般産科医の間では、「酸素濃度を四〇パーセント以下に抑えることにより、水晶体後部線維増殖症の発症を防ぎうる」との認識が一般的であった。そして、横尾病院においては、後記の保育器使用説明書に基づき、毎分三リットルまでの酸素投与によって保育器内濃度が四〇パーセントに達することはないとの認識のもと、患児の病状に応じて三リットル以内の酸素投与を実施していた。

横尾病院で使用していた保育器の使用説明書における酸素流量・濃度相関表によれば、酸素を毎分三リットル投与したときの器内酸素濃度は三三ないし三七パーセントになるとされている。本件診療当時は信頼できる酸素濃度計が入手困難であったので、横尾病院では酸素濃度計を使用していなかった。その後濃度計を購入し濃度を測定して酸素保育を行ってきた今日までの経験によれば、前記相関表は妥当なものであり、保育器の窓の開閉等の操作により、濃度が低下して、右の相関表記載の濃度より低い濃度となることはありうるが、これを超える高濃度となることは全くない。因みに、使用説明書には「器内濃度を測定する必要があります。」と記載されているが、その目的は「酸素治療効果を確実にするため」と明記されており、その趣旨は、窓の開閉等により、器内酸素濃度が低下し、期待された濃度に達しない結果「酸素治療効果」が十分に挙がらないことを警戒するため濃度測定を勧めているものであり、高濃度を警戒する趣旨ではない。

以上、要するに、患児に対する酸素投与は、すべて患児の病状に応じて、必要の範囲で行われたものである。最大投与時においても器内濃度四〇パーセントを超えているはずはない。投与期間は延べ日数でも僅か九日間である。そのうち連続投与は昭和四五年一二月二五日から二七日までの三日間にすぎない。チアノーゼ消失とともに、連続投与を打切っている。投与量及び投与期間ともに必要最少限度に維持されている。

したがって、被告横尾の酸素管理は極めて正当であり、酸素管理義務違反はない。

(4) 眼底検査義務違反、治療義務違反及び説明義務違反について

法律上、原告らが主張するごとき義務がないことは、「被告小樽市の責任原因について」において述べたとおりである。

なお、説明義務に関して、原告秋夫の退院日に原告春夫らが被告横尾に対して「黒目が下におちる」という話をしたというが、事実とすれば、それは、落陽現象といわれるものであり、脳の障害を示すサインであって、未熟児網膜症とは関係がない。この話を聞けば、脳性麻痺を疑うのが常識であり、未熟児網膜症を疑えというのは無理である。

5  被告全社連の責任原因について

(一) 診療経過

(1) 北海道社会保険中央病院入院前の経過

原告竹子は、昭和四七年五月二二日に胎盤早期剥離があった。出産予定日(七月二二日)より二か月早い同年五月二二日午前七時二一分、札幌市内のにいだ産婦人科医院において、女児(原告梅子)を娩出した。児は在胎三一週、生下時体重一三〇〇グラムの極小未熟児であった。出生直後には仮死やチアノーゼは認められなかったようであるが、極小未熟児であったため、にいだ医院では、大事をとって保育器に収容し、酸素の投与を行った。ところが、次第に陥没呼吸が出現し、危険な状態となったため、同日午後一時五〇分北海道社会保険中央病院小児科に転医させた。

(2) 入院後の経過

初診時の病状は、皮膚が全体に暗赤色を呈し、四肢末端のチアノーゼが認められた。体格、骨格及び栄養状態は極めて不良であった。胸郭の剣状突起及び肋間に陥没呼吸を示していた。体温は直腸部測定で三五度以下で測定しえない低体温であった。一分間の呼吸数は四五、脈拍数は一六五であった。血糖値の検査をしたところデキストロスティック法で一五ミリグラムという極めて低い血糖値を示した。そこで、北海道社会保険中央病院小児科では、極小未熟児、低体温症、低血糖症、呼吸窮迫症候群と診断し、次の方針のもとに治療を開始した。

(ア) 原告梅子は保育器に収容する。

(イ) 酸素投与はとりあえず、一分間の流量二リットルで開始し、器内酸素濃度を三〇パーセント台で維持する。

(ウ) 器内温度は直腸体温を三六・五ないし三七度に維持可能の温度に保つ。

(エ) 未熟肝による出血傾向があるためビタミンK1(ヒメロン)の筋肉注射をする。

(オ) 低血糖の補正・維持のため輸液をする。

(a) 臍帯静脈を切開し、輸液カテーテル挿入手術をする。

(b) 二〇パーセントグルコース一〇ミリリットルを注入する(低血糖の補正の目的)。

(c) 水、一〇パーセントグルコース液の持続点滴をする(血糖維持、維持輸液の目的)。

(d) 輸液中に七パーセント重曹水(メイロン)を注入する(呼吸性酸血症、代謝性酸血症の予防目的)。

(e) 抗生物質ケフリンを注入する(感染防止)。

(カ) その他の一般管理

体温、脈拍、呼吸数の変動、チアノーゼ、陥没呼吸、周期性呼吸、無呼吸等の呼吸状態、嘔吐、腹満、下痢、便秘、排尿の状態、黄疸、痙れん等の各症状につき経渦を観察する。

右の方針に基づいて治療を行った。特に前記の低血糖対策を積極的に実施した。その結果、血糖値は八〇ないし一〇〇ミリグラムに上昇した。また、測定不能であった低体温も、保育器内温度を一時的に三五ないし三六度に上昇させることにより、次第に回復した。

しかし、呼吸は不規則で、剣状突起、肋間陥没呼吸が長期間持続する状態であった。チアノーゼも頻繁に発現した。黄疸は昭和四七年五月二三日午前中より発現し、次第に強くなった。翌二四日午前の血液検査では、総ビリルビン値一一・六ミリグラム(直接リルビン三・二ミリグラム、間接ビリルビン八・四ミリグラム)を示したので、直ちに同日午後交換輸血を実施した。更に、翌二五日午前から二六日朝までの間、光線療法を実施した。

右の各処置により、総ビリルビン値は二六日午後の時点で八・四ミリグラムにまで下がった。当面の危機を脱した。しかし、その後も黄疸は持続し、二九日には、再び総ビリルビン値一〇・三ミリグラムにまで再上昇したため、午後から、翌朝まで光線療法を実施した。黄疸は、次第に消退し、三一日には、皮膚の黄疸色はほとんど消失した。

その後も陥没呼吸は持続し、チアノーゼの発現もしばしばであったが、昭和四七年六月二日午前一〇時をもって酸素投与を中止した。その時点の体重は一二六〇グラムであった。呼吸数は時に六〇以上になる状態であったが、酸素を投与しないで経過を観察することにした。その後も呼吸はなかなか安定せず、陥没呼吸が長期間持続する状態であったが、順調に体重が増加し、体動も活発となった。一般状態は次第に良好となった。そこで昭和四七年七月四日に保育器から出してコットに移した。同年七月二三日、体重二八六〇グラムにて退院した。

(二) 原告梅子の担当医師らの義務違反について

(1) 全身管理義務(酸素管理義務)違反について

(ア) 前記「被告小樽市の責任原因について」においてすでに述べたとおり、医師には本症の予防・治療との関連においては全身管理義務はなかったし、原告らが主張するごとき酸素管理の基準も当時は確立されたものではなかった。

(イ) 原告梅子に対する酸素投与経過は次のとおりである。投与期間は五月二二日午後二時より六月二日午前一〇時までの間(その間一時休止の時間が六回ある。)であり、投与量は毎分の最大流量二リットルで開始し、漸減した。

昭和四七年五月二二日 午後二時) 二リットル(毎分。以下同じ。)

同月二三日 午前零時一五分) 一リットル

同月二七日 午前一一時四五分) 間欠的投与(一リットル)

午後零時二五分) 休止

四五分) 一リットル

午後一時二〇分) 休止

五〇分) 一リットル

午後三時〇分) 休止

三五分) 一リットル

午後四時一五分) 〇・五リットル

三五分) 休止

午後五時〇分) 一リットル

午後六時一五分) 休止

三〇分) 〇・五リットル

二〇時一〇分) 休止

四五分) 〇・五リットル

同年六月二日 午前一〇時〇〇分 中止

(ウ) 原告らは、原告梅子には酸素投与の適応がなかった旨主張する。

しかしながら、原告梅子の保育上の三つの問題、すなわち、低体温、低血糖、高ビリルビン血症の三症状は、すべて呼吸障害の誘因となるものであり、当時の基準からしても酸素投与は必然的であった。そして、医師がこれらの症状に対して適切な処置をしたにもかかわらず、なお、陥没呼吸、呼吸頻数の改善がみられず、周期性呼吸、二段式呼吸、チアノーゼも、極めて頻繁に発現していた。五月二五日の光線療法中に無呼吸発作と全身チアノーゼを生じたことについて、原告らは、なんでもなかったようにいうが、認識不足である。北海道社会保険中央病院としては、このようなことのないように予め予防的に酸素を与えたり、いろいろ配慮をしていたのであり、それでもこのような事態が起こると、呼吸障害が更に重篤な症状に進展することが危惧されたので、酸素投与を継続せざるをえなかったのである。まして、原告梅子の場合は、陥没呼吸が長期間出没していたのでなおさら酸素投与を中止しにくい情況であった。原告らは、もっと早く酸素投与を打ち切るべきであったというが、それは結果論であり、極小未熟児の死亡率が極めて高かった当時としては、より慎重にならざるをえなかったのである。

(エ) 次に酸素濃度の管理について述べ

当時、北海道社会保険中央病院では、児の呼吸障害、チアノーゼ、呼吸数等を主たる指標として、酸素流量を決定し、濃度計による濃度測定を補助手段として酸素管理を行っていた。同病院で用いていた保育器の使用説明書には酸素流量・濃度相関表が掲載されていたので、これにより器内濃度を推定することができる。そこで、従前は濃度測定を行わず、専ら流量による管理を行っていたのであるが、昭和四七年から酸素濃度計(二葉モデル三三〇A)を使用して、器内酸素濃度のチェックを行うようにした。ところが、右濃度計は不安定な数値を示すことが多く、必ずしも信頼できない状態であったので、原告梅子の保育の際にも、医師の指示は「酸素流量何リットル」という形で出され、流量管理を主体として行っていた。濃度測定は、保育器内酸素が極端に高濃度もしくは低濃度になっていないことの確認のために、看護婦に実施させていたにすぎない。ところが、原告梅子の保育中の昭和四七年五月二七日、酸素流量毎分一リットルで投与しているにもかかわらず、午前一一時四五分の濃度測定では四五パーセントという結果が出た。そこで、同病院では酸素投与量の漸減と投与休止を何度も繰り返し、器内酸素濃度を低下させた。やっと午後六時三〇分以後毎分〇・五リットル投与で濃度三〇パーセント台の維持が可能となった。酸素流量は僅少であり、この間の患児の呼吸数は多く、陥没呼吸も持続しており、患児は明らかに酸素不足の反応を示しているから、器内酸素濃度が濃度計の測定値ほど高値であったはずがなく、濃度計が狂っていたとしか考えられない。そこで、同病院では右濃度計の使用はかえって危険であると考え、その後廃棄した。現在では、異る機種のもの三種類を新規購入し、不審な測定値が出た時は互いにチェックできるようにして濃度測定を実施している。

したがって、患児の症状に照らせば、原告梅子に対する酸素投与は、その量において過少であり、期間においても短期にすぎ、未熟児の目を守るために生命や脳を危険にさらしたのではないかとの批判はありえても、酸素過剰であるとの非難は全く当たらず、担当医師には酸素管理についての過失はない。

なお、原告らは更に動脈血中酸素分圧の測定をすべきであったとも主張するが、原告梅子の出生した昭和四七年当時、北海道においては、アストラップによる微量測定(〇・二ミリリットル以下の血液で測定)を実施していた病院はなかった。二ミリリットルもの血液を取って調べる大量採血法の装置はあったが、これでは、頻繁に調べるわけにはいかず、実務上は有用なものではなかった。昭和四六年からこの機械が入手可能となったので、南部医師は早速購入の要望を出したが、高価な機械であるとの理由から、すぐには認められず、二年後に購入されたのである。これは当時としては、じつにすばやい対応であったというべきであるから、この点に関しては、何ら非難されるべきところはない。

(2) 眼底検査義務違反について

原告梅子の出生した当時においては、眼底検査が本症の早期発見のための有力な手段であるとの知見は確立していなかった。

北海道大学では昭和四五年から定期的眼底検査をしていたというが、北海道で当時これができたのは、北海道大学だけであり、例外的存在であった。北海道大学眼科における未熟児網膜症教育はこのときから始まったのであり、ここで教育を受けた眼科医が卒業して実務に携わるようになった昭和四九年ころから、北海道内のいくつかの地方都市でも眼底検査ができるようになった。一般病院において、大学病院と同じ程度のことができるようになるのには四ないし五年のタイムラグがあるのは、むしろ当然である。因みに、同じ大学病院でも、札幌医科大学で定期的眼底検査をするようになったのは昭和四八年からである。しかも、眼科の方から産科に申し入れをした結果であるとのことである。

(3) 説明義務違反について

昭和四七年当時、北海道社会保険中央病院には、未熟児の眼底検査のできる医師はいなかった。北海道大学や江口医師の光凝固法の成功例についての情報も全く発表されていなかった。したがって、地方の小児科医としては、たとえ中央のレベルでどのようなことがいわれていたとしても、北海道でどの程度のことができるのか全くわからない状態であった。医療は、単に医学知識があればよいというものではなく、それを実施するに必要な技術を身につけたスタッフがいて、はじめて実用に供されるものである。当時は、光凝固法の有効性も確立されておらず、どこへ行けば眼底検査ができるのかもわからない状態であったし、未熟児網膜症に対する関心もまださほど高い時代ではなかった。南部医師が、他の病院の眼科で眼底検査を受けるよう勧めるところまで踏切れなかったのも、当時としてはやむをえないことであった。

四  右被告らの主張に対する原告らの反論

1  酸素管理について

(一) いわゆる「ルーチン投与説」について

被告らの主張の中には、酸素投与の基準についてチアノーゼ等の症状がなくてもルーチンに酸素を投与すべきであるとするいわゆる「ルーチン投与説」にしたがっていたとの部分がある。しかし、右の「ルーチン投与説」といわれるものも、無制限な酸素投与を是認する趣旨ではなく、ルーチンの酸素投与は「出生後暫くの期間」、「濃度は三〇パーセント以下で、期間はなるべく短く」と限定したものである。この「出生後暫らくの期間」とは生後七二時間位の範囲を指している。それは、突発性呼吸障害症候群に罹患した場合には、生後四八時間以内にほぼ生存しうるか否かの決着がつき、三日以上生存した未熟児であれば重症呼吸障害で死亡するおそれは激減するというデータに基づく。

したがって、この説によっても、本件における原告一郎同秋夫及び同梅子らに対する酸素投与を正当化することはできない。なお、右「ルーチン投与説」は今日では否定されている。

(二) 濃度管理の基準について

被告らは、昭和四五年ないし昭和四七年当時は、一般臨床小児科医の間では「酸素濃度を四〇パーセント以下に抑えることにより、水晶体後部線維増殖症の発症を防ぎうる。」との認識が一般的であったと主張するが、事実は逆であり、四〇パーセント以下の酸素でも本症が発生するから、酸素は最小限に抑えなければならないというのが当時の医学界の常識であった。本件における各主治医らが右のような認識で診療に当っていたとすれば、それだけ酸素管理上の過失を推定するに十分である。

酸素投与量を毎分三リットルとした場合、保育器内の濃度が四〇パーセント以下となる保障はない。保育器の使用説明書における流量・濃度の相関表の数字は一応の目安にすぎず、保育器の器種、形式、使用期間、使用状況等により流量と器内濃度には予想外のバラつきがあることが知られている。そのため濃度計による濃度のチェックを厳格にすべきことが提唱されていた。

(三) 被告小樽市関係

(1) 被告小樽市は、当時信頼しうる濃度計を入手しえない段階にあったというが、保育器の使用説明書にある「ベックマン製酸素濃度計」を入手できない理由はなかったと考えられる。

(2) 被告小樽市は、毎分三リットルの酸素を投与した理由として、分娩時、原告一郎のアプガールスコアが五点で、体温三四度、呼吸が不規則、顔面・四肢にチアノーゼがあったこと及びその後も六月二五日まで断続的にチアノーゼが発現し、直腸温も正常に上昇しなかったことなどをあげる。

しかし、分娩時の呼吸が不規則であったといっても、いわゆる呼吸異常(胸式呼吸、陥没呼吸、無呼吸)ではないし、その後入院中一度も呼吸異常を起した形跡は認められない。また、チアノーゼ発現の部位も顔面、四肢ないし口囲、四肢末端に軽度に出た程度であり全身性のチアノーゼの発現はなかった。アプガールスコアの低得点も、直ちに酸素投与の適応を意味しない。いずれにしても酸素投与の医学的適応のある場合に当たらない。

原告一郎の体温は、生後二七日間位おおむね三四度ないし三五度台の異常低温であった。しかし、低体温の改善のためには保育器内の温度を上昇させるなどの手段によるべきで、酸素投与は低体温の改善には役立たない。

生下時体重への回復の遅れということも、酸素投与を必要とするものではない。体重の減少を抑えたり、体重の増加を促がすのに酸素は何らの効果もない。

(四) 被告全社連関係

被告全社連は、原告梅子への酸素投与の適応の根拠として低体温、低血糖、高ビリルビン血症をあげる。

しかし、低体温は、その後の経過をみても順調な体温維持状態にあるから、入院までの間の搬送に原因がある一過性のものと判断される。「低血糖」も入院初期症状としては重篤であったがグルコース等の薬物投与でおさまり、交換輸血や光線療法等の処置によってビリルビン値も正常化している。したがって、これらは酸素投与の適応にはならない。

2  光凝固法について

(一) 被告らは、光凝固法は本症に対する治療法としては現在に至るもまだその有効性が確立されていないと主張し、その主張たる理由として、有効性の確認のための対照研究が存しないこと、アメリカにおいてもその有効性に問題ありとして積極的には用いられていないこと、光凝固法施行後の副作用が危惧され、その無害性が証明されていないことをあげている。

これらの諸点に対して、以下のとおり反論する。

(二) 本件各事故発生後の知見の法的評価

まず、本症に対する光凝固法の有効性の争点には、第一に、主治医が、本症の発症当時、本症に対する治療法として光凝固法が存することを認識し、その治療法の有効性が客観的に医療機関の間で認められるに至っていたか、という責任論との関係と、第二に、現在の知見からいって光凝固法によって失明がどの程度防止できるものであるか、と言う因果関係の問題が含まれている。

第一の観点に関する重要事項は、原告患児らが治療適期にあった時点で光凝固法がどのような評価を受けていたかに尽きるもので、それ以後の同治療法に関する知見はすべて第二の因果関係の存否の判断資料となるにすぎないものである。被告らはこの区別を無視して最近の知見を網羅して主張しているが、責任論に関する限り意味のないことである。

また、光凝固法の本症に関する医療水準の程度は、現に自ら光凝固法によって治療に従事する場合(主として眼科医)と同法の存在を知って、それを患児らの保護者に説明し、眼科受診のための転医を勧める場合(主として産科・小児科医であるが眼科医も含まれる。)とでは異なるはずである。

前者の場合には、児の眼底の進行状態を把握し、かつ、自ら手術に従事するのであるから、光凝固法の診断基準や具体的治療法について高度な知識を必要とし、先例となる症例数やその成功例についても相当な研究を要すると考えられるが、後者の場合には、本症及び光凝固法の存在とその成功例があるらしいことの認識さえ得られれば、眼科医への受診を勧めるべき程度の水準に至っていると解するに十分である。なぜならば、親としては、眼科専門医による説明をきいたうえで、光凝固法を受けさせるか否かを自らの責任において決定しなければならないものだからである。

したがって、昭和四五年という時期に至っても児の保護者に対して本症の説明もせず、眼科受診の機会すら奪ってしまったことは重大なミスというべきである。

(三) 光凝固法に関する対照研究の必要性について

(1) 被告らは、本症は自然寛解率の高い疾病であるから光凝固法の本症に対する有効性の確定については、対照研究によって検証する必要があると主張する。そして、その点について馬嶋昭生の行った昭和四七年六月以降の二五例の片眼凝固の研究を指摘している。

しかし、光凝固法の有効性の確定のためには、必ずしも対照研究を行う必要はない。

(2) このような研究が必要であるとするのはアメリカのような厳しい証明を要求する風土にある場合の発想である。わが国のように、人体実験の許されない環境にあり、また正しく医の倫理を守る医学研究者においては、将来ともに対照研究は行いえないことになり、したがって、その有効性の確立もなされることもなく、結局、光凝固を本症に適用してはならないことになる。昭和四九年に行われた厚生省研究班の報告においても、Ⅰ型については治療適期をギリギリの危険段階まで抑えるべきことが指摘されていても光凝固法自体の有効性は否定されていない。もちろん、将来においても対照研究を行うべしとの意見は皆無であって、これを求めるのは被告らの独自の見解である。

(3) 光凝固法は、もともと成人にみられる中心性網膜炎や糖尿病性網膜炎などの治療法として行われていたものであるが、その治療原理は本症の場合とで差異はなく、わが国では、かつて右の成人にみられる疾病についても厳密な対照試験を経て実用化されたものではない。

(4) 対照研究が人体で行うことが困難である場合、動物実験によって代置することは考えられるが、動物の場合には活動期の変遷過程を人工的に作出させることはできても、動物は、本来、網膜剥離を生じない特徴を有するから光凝固法の施行自体意味がなく、結局、不可能を強いる立論である。

(5) 被告らは、光凝固法施行によって治癒したものか自然寛解したものかを判定するための研究として昭和四七年以降行われた馬嶋昭生の研究例を主張するが、右研究の結論は、Ⅰ型の場合第2期段階で光凝固法を施行することは少し時期が早いというものであって、馬嶋もそれ以降の段階における光凝固法の有効性は認めているものである。

なお、右研究において注目すべきことは、非凝固眼について症状進行の傾向を示した二例については馬嶋も結局本法を施行したものであり、これは本法の有効性を証明する事実というべきである。

(6) また、いかに左右の眼について比較対照しようとしても、そもそも両眼が同一の成長過程や同一視力を保持するとの確証はないのであるから、仮に、これらの研究を行いうる国情にあったとしてもその結果の不完全さは免れることができない。

(四) 光凝固法に関するアメリカの評価について

被告らは、アメリカにおいては、光凝固法の有効性について、疑問が呈され、その施行について消極的であると主張するので反論する。

(1) 被告らの主張を裏付けるものは、ワシントン大学の一医師の手記のみであって、これがアメリカの医学界を代表するとの見解は誤りである。アメリカにおいては、本症発生のピークを形成したのは、一九四〇年初期であった。その後は、全身管理の徹底(保温・輸液)と酸素使用の制限(三度にわたる決議)と徹底管理(PaO2測定等)という本症発生防止のための最大の努力がなされ、そのために、本症の発症例を激減させてきたのである。これに対し、わが国では、アメリカに遅れること約二〇年で本症発症のピークの時期を迎えたが、本症に対する関心は、眼科が中心であり、産科・小児科は、アメリカの前記の実情を知りながらも全身管理と酸素使用管理の双方に亘って積極的な努力をしなかったものである。

したがって、このような両国の国情の差異が、わが国では眼科に治療技術の早期開発を余儀なくしたものであって、むしろ、本症に対する光凝固法の施行面では、アメリカの眼科研究よりも発達していると評価すべきものである。そのために、たとえアメリカの学界が一般的に消極的態度であったとしても、カナダ、イスラエルなどは冷凍凝固法を光凝固法と同様に採用して本症の治療を行っているのである。

(2) 更に、実際には、アメリカにおいても本症に対して光凝固法を使用している。ただし、アメリカの場合には、「緊急避難的治療法」とされている点に特徴があるだけである。この意味は、本症に対する治療法としては凝固法以外に存しないから、眼底検査の結果、どうしても網膜剥離に至ると思われる場合には、やむなく実施するというもので自然寛解に至るかもしれないという段階でむやみに施行するという態度を抑制しているということに尽きるものである。この考え方は、現在では、Ⅰ型について、植村教授にしても、昭和五二年に行われた日眼総会宿題報告にしても、同じ見解を示しているもので、特異なものではない。

しかし、重要なことは、Ⅰ型の治療法として光凝固法に対照研究の成果がないとか副作用の可能性があるからとかいう理由をもってしても、現に網膜剥離状態への進行が予想される症状に対しては、必ず、光凝固法を施行すべきであるとする結論に変わりはないということである。

現に、本件の原告ら患児は、この網膜剥離期を超えて失明に至ったものであって、この子らが、仮に、被告らの主張するように、アメリカに在住していたとしても、また植村教授もしくは前記の宿題報告者のもとで治療を受けたとしても、必ず光凝固法を受ける適応症であったことを意味するものである。

(五) 光凝固法の副作用について

被告らは、光凝固法の施行によって副作用を生ずる可能性があり、その無害性は証明されていないと主張する。

被告らの主張する副作用については、それがいかなる疾病なのか、またどの程度の期間を経過した後に生ずるものなのか、更にはその可能性とはどのような確率なのかの指摘は全くない。したがって、右の主張は、単なる憶測を述べたものと思われるが、一応、反論する。

(1) まず、わが国においては、昭和四一年に永田医師によってはじめて光凝固法が実施されたものであるが、その後一六年余が経過した昭和五七年九月に同医師が発表した調査結果によると、本法の施行のために新たな障害を生じた例はなく、また年月を経ることによって視力が更に低下したという例もないと指摘されている。

(2) 同法の実施例としては、大島健司助教授によるものが時期的にも早く、またその数も最多数となっていると思われるが、同助教授は副作用としての新たな疾病例の発表をしていないし、また、他の医師による公表例もない。

(3) 同法の施行によって考えられる障害については、前記の宿題報告が先天性トキソプラスマ症を類似例として指摘しているが、いかに重大な眼疾患を考えても失明より重い結果を想像することはできない。光凝固法を施行しなかったこと、その適応時期を逸したことの結果は、失明である。少なくとも、本件の原告患児らについてはその結果に至っているのである。被告らの指摘する前記の宿題報告は、同法の有効性についてその適期の重要性を度外視して「時間をかせぐ治療」法と誤って評価されていることが前提とされたうえで、そうであれば副作用も考慮に入れる必要性があると述べているだけで、被告らのように、軽い副作用が考えられるから同法の確立はなく、また施行もすべきではないという暴論を唱えているものではない。

第三証拠関係《省略》

理由

第一原告一郎、原告太郎及び原告花子の被告小樽市に対する各請求関係

一  請求の原因1(一)及び(四)の事実(当事者)は、当事者間に争いがない。

二  請求の原因2(一)の事実(診療契約の成立)は、当事者間に争いがない。

三  請求の原因3(一)の事実(原告一郎の視力障害の発生)のうち、原告一郎は、昭和四五年五月二七日に小樽市立病院で出生したが、在胎期間が三二週で生下時体重が一九八〇グラムの未熟児であったこと、原告一郎が、同日から同年六月三〇日までの三五日間保育器内に収容されていたこと、同年五月二七日から同年六月二三日までの二八日間、毎分三リットルの酸素投与を受けたこと及び同年七月二三日に体重三四〇〇グラムで退院したことは、当事者間に争いがない。

また、《証拠省略》を総合すると、原告花子が昭和四五年六月下旬ころ原告一郎の目の異常に気付いたこと、同年一〇月二八日国立小児病院の医師植村恭夫により未熟児網膜症と診断されたこと、原告一郎の視力は昭和四八年一〇月の段階では右〇・〇二、左失明(視力〇)で矯正不能と診断され、昭和五五年一月ころには右〇・〇五、左〇・〇二と診断されたが、現実には左目は使用しておらず、右目も普通の眼鏡が使用できないので望遠鏡様の単眼鏡を使用していることが認められる。

四  そこで、原告一郎の視力障害発生の原因について検討する。

1  原告一郎の視力障害発生に至る経緯

前項で認定した各事実のほか、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 原告花子は、昭和四五年一月一六日、小樽市立病院産科で妊娠している、との診断を受けた。以後同病院で約一か月に一回の割合で妊娠の定期検診を受けた。同年四月六日(妊娠二五週時)、性器出血のため受診した。その際、医師から前置胎盤の疑いがあるので入院したほうが良いと勧められたが、入院しなかった。その後、また出血様のものがあったので、レントゲン写真撮影を行った結果、同年五月一日、全前置胎盤は確実と診断された。同月一九日、同病院に入院した。

(二) 原告花子は、昭和四五年五月二七日午前三時ころ破水し、緊急帝王切開により同日午前五時一五分ころ分娩した。児(原告一郎)は、在胎三二週、生下時体重一九八〇グラムの男児であった。

(三) 原告一郎は、昭和四五年五月二七日午前五時三〇分ころ、小樽市立病院小児科に入院した。主治医は松浦信夫であった(この点は、当事者間に争いがない。)。入院時、原告一郎は、体重一九八〇グラム、体温三四度であった。アプガールスコア(新生児の状態を一〇点満点であらわす数字である。八ないし一〇点が健康、三ないし七点が要注意、〇ないし二点が重症を意味する。)は五点であり、呼吸努力はない、と判断された。体格は非常に小さく、皮下脂肪は少なかった。肋間腔の凹みと胸廓の陥没があった。顔面、四肢にチアノーゼがあった。呼吸は不規則であった。啼泣、体動がなかった。松浦医師は、直ちに原告一郎を保育器に収容した。器内温度は三〇度とし、湿度は七〇パーセントとした(この設定は保育器収容中継続した。温湿度の維持は器内の温湿度計を見ながら行った。温度維持には保育器のヒーターのほか、補助的に湯タンポを用いた。湯タンポの使用は第六週の二日目である同年七月二日まで続けた。)。毎分三リットルの酸素を投与した。ビタミンKも投与した。午前七時ころには、いったん顔面・四肢のチアノーゼが消失したが、呼吸はなお不規則であった。午後一時ころ湯タンポを交換した。このときは、呼吸は時々不規則となる状態であった。四肢に冷感があった。体動はなく、全身が紅潮して、四肢にチアノーゼがあった。特に右足のチアノーゼが強かった。

(四) 翌二八日午前七時の原告一郎の体温(直腸温((わきの下より五分ほど低くなる。))である。以下同じ。)は三五度であった。四肢末端にチアノーゼがあった。体動と啼泣が見られた。正午ころ、はじめて栄養を補給した。鼻カテーテルを通して五パーセントブドウ糖溶液一〇ミリリットルを与えた。午後三時から一回にミルク五ミリリットルずつを三時間おきに与えた。この日は合計二〇ミリリットルのミルクを与えた。嘔吐はなかった。四肢末端のチアノーゼは午後も続いた。昼、夜とも呼吸が不規則で、脈も不整であった。

(五) 五月二九日の原告一郎の体温は、三四・五度ないし三五・五度であった。体重は一七八〇グラムであった。四肢末端のチアノーゼが朝、昼、夜ともあった。黄疸が発生した。合計六五ミリリットルのミルクを与えた。

(六) 五月三〇日の原告一郎の体温は、三五度ないし三五・四度であった。朝、昼、夜とも四肢末端にチアノーゼが見られた。黄疸が強くなった。ビリルビン値は、直接ビリルビンが一・〇ミリグラム、間接ビリルビンが八・二ミリグラム、総ビリルビン九・二ミリグラムと測定された。合計一〇五ミリリットルのミルクを与えた。

(七) 五月三一日の原告一郎の体温は、一時、三四度台となったが、三五度台で推移した。四肢末端にチアノーゼがあった。黄疸も生じていた。合計一三五ミリリットルのミルクを与えた。

(八) 六月一日から、原告一郎の主治医が上原秀樹にかわった(上原医師が主治医であったことも、当事者間に争いがない。)。原告一郎の体温は三四・八度ないし三五度であった。朝、四肢にチアノーゼがあった。昼及び夜には、口囲にチアノーゼが生じていた。この日も黄疸が見られた。二度目のビリルビン値の測定がなされた。直接ビリルビン一・〇ミリグラム、間接ビリルビン七・一ミリグラム、総ビリルビン八・一ミリグラムであった。体重を増加させるためにジュラボリンを、黄疸の治療のためにコートロシンをそれぞれ使用した。合計一八五ミリリットルのミルクを与えた。

(九) 六月二日の原告一郎の体温は、三四・八度ないし三六・二度であった。体重は一七二〇グラムであった。朝、昼、夜ともに口囲チアノーゼ、黄疸があった。黄疸は以前より減少した。合計二〇〇ミリリットルのミルクを与えた。コートロシンを使用した。

(一〇) 六月三日の原告一郎の体温は、三四・七度ないし三五度であった。黄疸が続いていた。夜、四肢と口囲にチアノーゼがあった。合計二〇〇ミリリットルのミルクを与えた。コートロシンを使用した。

(一一) 六月四日の原告一郎の体温は、三四・七度ないし三五・七度であった。朝、昼に黄疸があった。昼、前頸部にタダレが見られたのでマーキュロを塗布した。夜、四肢末端に軽度のチアノーゼがあった。コートロシンを使用した。コートロシンの使用はこの日で中止された。合計二三五ミリリットルのミルクを与えた。

(一二) 六月五日の原告一郎の体温は、三五・六度ないし三六度であった。夜、口囲にチアノーゼが見られた。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一三) 六月六日の原告一郎の体温は、三五・五度ないし三五・九度であった。朝は下肢にチアノーゼが、昼は両足底にチアノーゼが、夜は両下肢にチアノーゼがあらわれた。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一四) 六月七日の原告一郎の体温は、三五度ないし三五・六度であった。朝と昼に両下肢にチアノーゼが、夜には口囲にチアノーゼがあらわれた。朝の両下肢のチアノーゼは軽度のものであった。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一五) 六月八日の原告一郎の体温は、三五・四度ないし三六度であった。朝、口囲にチアノーゼがあった。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一六) 六月九日の原告一郎の体温は、三五・六度ないし三六・四度であった。体重は一六八〇グラムとなった。朝と昼に口囲にチアノーゼがあらわれた。この日の午後六時の分から経口哺乳とした。哺乳力は強かった。嘔吐、嘔気ともになかった。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一七) 六月一〇日の原告一郎の体温は、三五・八度ないし三六・九度であった。夜、四肢に冷感があった。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一八) 六月一一日の原告一郎の体温は、三五・六度ないし三六・八度であった。朝は四肢末端に、昼は口囲にそれぞれチアノーゼが見られた。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(一九) 六月一二日の原告一郎の体温は、三五度ないし三六・三度であった。体重は一七一〇グラムであった。朝、昼、夜とも口囲にチアノーゼがあらわれた。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二〇) 六月一三日の原告一郎の体温は、三三・七度ないし三五・六度であった。朝、昼、夜とも口囲にチアノーゼが見られた。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二一) 六月一四日の原告一郎の体温は、三五・四度ないし三六度であった。昼、うすい黄疸があった。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二二) 六月一五日の原告一郎の体温は、三五・五度ないし三六・一度であった。ジュラボリンを使用した。合計二四〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二三) 六月一六日の原告の一郎体温は、三五・二度ないし三六度であった。体重は一八二〇グラムであった。哺乳状態は良好であった。正午からミルクの量を増やした。合計二九〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二四) 六月一七日の原告の一郎体温は、約三五・六度ないし三六・一度であった。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二五) 六月一八日の原告一郎の体温は、約三五・五度ないし三六度であった。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二六) 六月一九日の原告一郎の体温は、三五・四度ないし三六・八度であった。体重は一九二〇グラムで生下時体重近くまで回復した。朝と夜に口囲にチアノーゼがあらわれた。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二七) 六月二〇日の原告一郎の体温は、三六度ないし三六・二度であった。朝、口囲に軽度のチアノーゼがあり、夜も口囲にチアノーゼがあった。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二八) 六月二一日の原告一郎の体温は、約三五・五度ないし三五・九度であった。朝と昼に口囲にチアノーゼがあった。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(二九) 六月二二日の原告一郎の体温は、三五・八度ないし三六・二度であった。体重は二〇二〇グラムで生下時体重を越えた。朝、口囲にチアノーゼが見られた。ジュラボリンを使用した。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(三〇) 六月二三日の原告一郎の体温は、三五・五度ないし三六・八度であった。この日、午前一〇時をもって、酸素投与を中止した(それまで継続的に毎分三リットルずつの酸素が投与されていた。)。合計三二〇ミリリットルのミルクを与えた。

(三一) 六月二四日から同月三〇日までの間、原告一郎の体温は、一時、三五度台になることもあったが、おおむね三六度台で推移した。体重は、六月二五日に二〇二〇グラム、同月二六日に二一二〇グラム、同月三〇日に二三五〇グラムとなった。哺乳量は、六月二四日は一日合計三二〇ミリリットル、同月二五日は一日合計三七〇ミリリットル、同月二六日から二八日までは一日合計四〇〇ミリリットル、同月二九日は一日合計四六〇ミリリットルと増やした。六月二四日夜及び同月二五日朝に口囲にチアノーゼが見られた。六月三〇日午後一時に、保育器からコットに移された。

(三二) 七月一日以降、原告一郎の体温は、おおむね三六度台で推移した。七月一九日以降は、三七度台で推移するようになった。体重も次第に増加し、七月一七日には三四〇〇グラムとなった。哺乳量も、七月一日からは一日合計五六〇ミリリットルになり、七月一三日からは一日合計七二〇ミリリットルと増え、七月二二日には一日合計七七〇ミリリットルとなった。週一回の割合でジュラボリンを使用した。七月二二日朝、口囲にチアノーゼがあった。七月二三日に退院した。

(三三) 原告花子は、原告一郎が保育器を出た直後から、目の様子がおかしいのではないかと感じるようになった。そこで、上原医師にこの点を尋ねてみたが、身体の割に目が大きいのでそのように感じるのだろうといわれた。原告一郎は、退院後も目の前のものを見詰めることができない様子だったので、原告花子は、小樽市保健所の相談の機会にも、目がおかしいのではないかと尋ねた。相談担当医師から、眼科の検査を受けるようにいわれた。同年一〇月中旬に北海道大学眼科の検査を受けたが、結果をはっきり告げられなかった。そこで、原告太郎及び原告花子は、国立小児病院の植村恭夫医師の検査を受けることにした。同月二八日、検査の結果、未熟児網膜症と診断された。

2  未熟児網膜症の要因、発生機序、臨床経過等

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 未熟児網膜症の歴史

本症が最初に報告されたのは一九四二年(昭和一七年)のことである。Terryが水晶体後部に灰白色の膜状物が形成されて失明している未熟児を報告したのである。同人は、一九四四年(昭和一九年)に、これをRetrolental Fibroplasia(水晶体後部線維増殖症)と名付けた。その後、同様の症例が相次いで報告された。当時これは水晶体血管を含む胎生組織の遺残又は過形成によるもので眼の先天性の異常であろうと考えられた。一九四九年(昭和二四年)になって、Owensらの手により、本症が未熟児にみられる後天性の眼疾患であることが明らかにされた。その報告によれば、未熟児にみられる胎生期の硝子体組織の遺残は生後間もなく消失して本症の発生には関係なく、病理学的には本症は網膜血管の病変であるとされた。そして、本症の病名も、SorsbyによってRetinopathy of Prematurity(未熟児網膜症)とすることが提唱された。今日、わが国でも水晶体後部線維増殖症という名称は重症の瘢痕期のもののみを連想しやすいという理由で、未熟児網膜症という名称に統一されている。

本症は、米国において、酸素投与が自由に行われていた一九四〇年代の後半から急激に増加し、一九四八年(昭和二三年)には乳幼児の失明の約三分の一が本症によると報告された。失明原因としては第一位であった。一九五四年(昭和二九年)に酸素療法の厳重な制限を内容とする勧告がなされ、米国での本症の発生頻度は劇的に減少した。しかし、酸素投与を制限するようになって、反面、呼吸窮迫症候群による死亡が増加したことが報告された。また在胎三一週以下の小さい未熟児で無呼吸発作を反復していた症例では、本症の発生率と脳性麻痺の発生率は反比例する関係があり、酸素投与期間の長いものには本症は多いが脳性麻痺が少ないことが報告された。そこで、呼吸障害のある未熟児には高濃度の酸素療法が行われるようになり、生存率が高まったかわりに、本症の増加が問題になった。

わが国においては、米国で本症が多発した一九四〇年代後半から一九五〇年(昭和二五年)ころ、未熟児保育の施設が少なく、保育器も未発達であり、未熟児を高濃度の酸素環境下で保育することがほとんどなかった。そのため、本症への関心は極めてうすかった。

昭和三九年になって、植村恭夫が本症の増加傾向を指摘した。昭和四〇年代になると、小児科専門の病院が設置されるようになり、本症に注目する研究者があらわれた。昭和四三年に永田誠らが光凝固法による本症治療の成績を報告した。これを契機として、各研究が進められ、昭和五〇年には厚生省特別研究費補助金昭和四九年度研究班の「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」報告がなされた。今日ではこれに基づいて更に研究が進められている。

(二) 未熟児網膜症の要因と発生機序

本症の原因については、これまでに多くの因子があげられている。ビタミンE欠乏説、ビタミンA欠乏説、水溶性ビタミンや鉄の欠乏、粉乳、輸血、光などが関係するという説、子宮内環境が関与するという説などがあった。しかし、これらの因子はすべて否定されている。一九五一年(昭和二六年)にCampbellが酸素過剰が因子だと指摘して以来は、これを支持する臨床例や動物実験の報告が相次いでいる。その後の研究では、酸素と同様に網膜の未熟性が本症の因子であること、問題となる酸素は環境の酸素ではなく動脈血中の酸素であること等も明らかにされた。このような経緯により、現在では、本症は、網膜特にその血管の未熟性が基盤となり、動脈血中酸素分圧の絶対的、比較的上昇を引き金として発生すると考えられている。すなわち、網膜血管の発育は鼻側で胎生八か月、耳側で九か月になって完成して鋸状縁に達するから、在胎三〇週程度で出生した未熟児は網膜血管の発育が十分でなく未成熟である。そして、動脈血中酸素分圧の上昇による酸素の作用は、まず未熟な網膜血管を収縮させ、遂にその先端部を閉塞させる。酸素の供給停止によって無血管帯の網膜は酸素の欠乏した状態となる。これを補うために異常な血管新生、硝子体への血管侵入、後極部血管の怒張、蛇行が起こるのである。このような増殖的変化により、網膜に破壊的変化が生ずることになる。

なお、現在でも、それ以外に直接的あるいは間接的に本症の発生、進行に関与する因子の存在を否定することはできず、発生機序については不明の点も少なくない。ただ、いずれにしても酸素が本症発生の要因の一つであることはほぼ異論をみないところである。

(三) 未熟児網膜症の臨床経過

本症の病期の分類については、わが国ではOwensの分類が用いられてきたが、不合理な点があったことから、前記厚生省研究班は、その報告の中で日本における診断・分類基準を示した。その概要は、次のとおりである。

(1) 活動期の診断基準及び臨床経過分類

(ア) 診断基準

臨床経過、予後の点から本症をⅠ型、Ⅱ型に分類する。

Ⅰ型は、主として耳側周辺に増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離へと段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるもので、自然治癒的傾向の強い型のものである。

Ⅱ型は、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺部の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイメディアのためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期から見られる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い、比較的速い経過で網膜剥離を起すことが多く、自然治癒的傾向の少ない予後不良の型のものをいう。

なお、この他に、Ⅰ型、Ⅱ型の混合型がある。

(イ) 臨床経過分類

Ⅰ型の臨床経過分類は、次のとおりである。

1期(血管新生期)

網膜周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白に見える。

2期(境界線形成期)

周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。

3期(硝子体内滲出、増殖期)

硝子体内へ滲出と血管及びその支持組織の増殖が認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲、怒張を認める。硝子体内出血を認めることもある。

4期(網膜剥離期)

明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の現局性剥離から全周剥離まで、範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

Ⅱ型は、Ⅰ型のような段階的経過をとることは少なく、比較的急激に網膜剥離へと進む。

(2) 瘢痕期の診断基準及び程度分類

1度

周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)の見られるもので、視力は正常のものが大部分である。

2度

牽引乳頭を示すもので、黄斑部が健全な場合は視力は良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は種々の視力障害を示す。日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。

3度

網膜襞形成を示すもので、鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、襞を形成し周辺に向かって走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は〇・一以下で、弱視又は盲教育の対象となる。

4度

水晶体後部に白色の組織塊が瞳孔領より見られるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

(3) 補足

右報告内容は、その後特にⅡ型に関する研究が進展したのを受けて、昭和五七年に第二次研究班による補足(昭和五六年度厚生省ハイリスク母児管理班、未熟児網膜症に関する研究報告)がされている。その概略は、次のとおりである。

(ア) Ⅱ型の診断基準のうち眼底所見について

まずⅡ型の確定診断として、赤道部より後極部の領域で、全周にわたり未発達の血管尖端領域に異常吻合及び走行異常・出血などが見られる。それより周辺には広い無血管領域が存在する。網膜血管は血管帯の全域にわたり著明な蛇行、怒張を示す。以上の所見を認めた場合、Ⅱ型の診断は確定的になる。進行とともに網膜血管の蛇行、怒張はますます著明になり、出血・滲出性変化が強く起こり、Ⅰ型のような緩徐な段階的変化をとることなく、急速に網膜剥離へと進む。境界線形成はⅠ型のごとく明瞭なものは作らないか、あるいは進行が急速なことがヘイジイメディアのため確認できない場合が少なくない。網膜剥離はⅠ型が主として牽引性剥離であるのに対し、Ⅱ型は滲出性剥離が主体である。

(イ) 活動期3期と瘢痕期2度をそれぞれ三段階に細分し、瘢痕期1度を広くとった。

(ウ) 従来の混合型を中間型とした。

3  右1及び2において認定したごとき原告一郎の視力障害発生に至る経緯と未熟児網膜症の要因、発生機序、臨床経過に関する現在の知見を総合すると、原告一郎は網膜の未熟性を素因とし、酸素の投与を誘因として未熟児網膜症に罹患し、前記認定のとおりの視力障害を負うに至ったことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

五  被告小樽市の責任原因について

1  医師の一般的注意義務

医師は、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者であるから、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である、と解するのが相当である。

そこで、昭和四五年ないし昭和四七年当時の未熟児網膜症に対する予防及び治療の実践における医療水準について検討する。

2  昭和四五年ないし昭和四七年における未熟児網膜症の予防及び治療に関する一般的医療水準

(一) 全身管理について

(1) 酸素管理をのぞくその他の全身管理(体温管理、栄養管理、観察等)について

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(ア) 未熟児は、一般に生命力、体力、抵抗力などの面において成熟児より劣っている。したがって、その保育には留意すべき点がすくなくない。そのため、本症の発生防止の見地からも体温管理、栄養管理に関する事柄は、文献上にも取り上げられている。

しかし、本症の発生防止のための具体的、直接的方法の一つとしての観点から全身管理(酸素管理をのぞく。)が、文献上取り上げられた例は見当たらない。

(イ) 文献にみられる全身管理についての記述はおおよそ次のようなものである。

① 昭和三二年に刊行された「小児科疾患及び看護法」において、東京共済病院小児科医長吉松駿一らは、体重二五〇〇グラム以下、在胎二八週ないし三七週で生まれた未熟児は保育器に収容し、温度は児の体重が一五〇〇グラム以下の場合は二九・五度ないし三二・二度とし、児の体重が一五〇〇グラム以上の場合は二三・八度ないし二六度とすること、後者の場合三二度以上に上げないこと、湿度は五五パーセントないし六五パーセントとし、帝王切開の時は更に高くするとしている。

② 昭和三二年に刊行された「医学のあゆみ」において、東京大学医学部小児科学教室の馬場一雄は、生下時体重二〇〇〇グラム以下の未熟児は、比較的低温で保育した方が予後が良いとの外国の説を引用している。また湿度については、高湿環境内に置くことが未熟児保育の常識となっており、生後数日間は飽和湿度の環境内で保育することが勧められているとしている。栄養については、生下時体重の小さい未熟児に対しては嘔吐と浮腫を避ける目的で長期の飢餓期間の後に授乳を開始する術式が推奨される現状であるとしながら、生後第一日目から授乳を開始すべきであるとする説も紹介している。

③ 昭和三四年に刊行された「小児科学テキスト改訂第三版」において、太田敬三らは、未熟児保育において呼吸の開発が必要なこと、感染防止が重要なこと、栄養については授乳開始や食餌増量は焦らずゆっくりと行うべきで、生下時体重の甚だ小さい例では生後三日間も経口的には何も与えないでおいても差しつかえないこと、生後二週までの一回の授乳量は、体重(キログラム)×授乳開始後の経過日数をおおよその目安とできること、生後二週間以後は体重一キログラム当り一五〇ミリリットルを一日の量とし、これを一日八回ないし一〇回に分割して与えること、初期の授乳は鼻腔又は口腔からカテーテルを用いて行った方が良いことを明らかにしている。

④ 昭和三四年に刊行された「未熟児の保育と栄養」において、世田谷乳児院院長大坪祐二と同院未熟児室の青山みどりは、未熟児保育の留意点として、呼吸の自立、感染防止、保温、観察を取り上げている。保温については、未熟児の体温が三三度以下になれば生命の危険が増大すること、保育器の温度は、生下時体重一五〇〇グラム以下は三二度、一五〇〇グラムないし一八〇〇グラムでは三〇度ないし三二度、一八〇〇グラムないし二〇〇〇グラムでは二八度ないし三〇度とするのを基準としていること、三二度を最高温度にしていること、湿度は生下時体重一八〇〇グラム以下の場合は生後三日は七〇パーセントないし九〇パーセントとし、その後六五パーセントないし七五パーセントとしていること、湿度を上げると不感蒸散が少なく体温下降を防止できるとされていることを明らかにしている。

⑤ 昭和三五年に刊行された「今日の治療指針一九六〇年版」において、立教学園診療所の江口篤寿は、未熟児の取扱いの原則は環境の調整、適切な哺乳、体力の消耗防止、感染防止であるとしている。保育器の温度については、原則として三〇度ないし三二度とし、三三度以上には上げないようにし、湿度については出生直後は八〇パーセント以上とし、その後次第に下げるが約六五パーセントを保つようにすべきであるとする。哺乳開始の時間については、生下時体重二キログラムでは出生後一二時間ないし二四時間、一・五キログラムでは三六時間、一キログラムでは四八時間ないし七二時間は何も与えないことがあるとしている。

⑥ 昭和三五年に刊行された「産婦人科の実際第九巻第六号」において、山口県立医科大学産婦人科教授藤生太郎は、「未熟児の取扱いとその哺育について」と題し、安静、保温、酸素の供給、感染防止、栄養等を取り上げている。保育器内の温度は二八度ないし三二度前後とするものが多く、外部より送院される未熟児で体温の下降している場合に高温の保育器内に収容して急激に体温の上昇をはかるとショック状態になったりするとしている。湿度は大体六〇パーセントないし七〇パーセントとするものが多いが、生下時体重一三〇〇グラム以下の場合には一〇〇パーセントとするのが良いというものもあるとしている。授乳は生下時体重一五〇〇グラム以下では四八時間ないし七二時間、一五〇〇グラムないし二〇〇〇グラムまでは三六時間ないし四八時間の飢餓期間を置いて開始するとしている。未熟児は各器官の発達が不十分であり、消化吸収力も弱く、疲労させることになることなどから授乳開始時期は遅い方が良いとの説を引用し、未熟児の過剰栄養は栄養不足よりはるかに有害であり死亡率を高めることが多いので最近は晩期授乳をするものが増えているとしている。

⑦ 昭和三五年に刊行された「産婦人科の世界第一二巻第一〇号」において、大阪市立大学医学部小児科教授高井俊夫らは、未熟児の保育環境について、温度は入院時の体温が三五度以上で高体温を示さないものについては三〇度、入院時体温が三五度以下の場合は三二度とし、その後調節するとしている。最高でも三二度とするとしている。湿度は六〇パーセントないし七〇パーセントとするとしている。栄養は一般状態が良ければ、生下時体重一・〇キログラムないし一・五キログラムのものは四八時間、一・五キログラム以上のものは二四時間の飢餓期間を置き、授乳開始後最初の一二時間は三時間ごとに五パーセントブドー糖液を与え、それが受容されれば調乳に移行し、授乳間隔はすべて三時間おきで一日八回行っているとしている。

⑧ 昭和三六年に刊行された「今日の治療指針一九六一年版」において、賛育会病院小児科部長中村仁吉は、生下時体重一四〇〇グラム以下の場合、温度を三二度、湿度七〇パーセントとすべきであり、生下時体重一四〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合は、温度を二八度、湿度を六〇パーセントとすべきであるとしている。飢餓時間は生下時体重一キログラムで四八時間、一・五キログラムで三六時間、二キログラムで二四時間を基準としている。

⑨ 昭和三七年に刊行された「今日の治療指針一九六二年版」において、国立岡山病院医長の山内逸郎は、保育器の温度について、生下時体重一二五〇グラムないし一五〇〇グラムの場合は生後五日目まで三二度、六日目から二〇日目まで三一度、それ以降は三〇度とし、一七五〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合は生後二〇日目まで三〇度、それ以降二九度ないし三〇度としている。湿度は六〇パーセント前後が適当だが生下時体重の小さい児では八〇パーセント付近の高湿が好んで用いられるとしている。授乳開始までの飢餓期間は生下時体重一五〇〇グラムでは四八時間、二〇〇〇グラムでは二四時間としている。授乳は「早過ぎるより遅い方がよい。」というのが現在の一般的見解であるとしている。

⑩ 昭和四一年に刊行された「今日の治療指針一九六六年版」において、都立母子保健院小児科医長村田文也は、未熟児の日常養護として呼吸の確立、保温、感染防止をあげている。保温については、生下時体重一二〇〇グラムないし一四〇〇グラムの場合には器内温度三二度、湿度七〇パーセントとし、一四〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合には器内温度三〇度、湿度六〇パーセントとすべきだとしている。飢餓期間、一回の食餌量は、生下時体重一キログラムないし一・五キログラムの場合、飢餓期間三日間、食餌量は食餌開始当日三ミリリットル、翌日六ミリリットル、一・五キログラムないし二キログラムの場合、飢餓期間二日間、食餌量は食餌開始当日四ミリリットル、翌日八ミリリットルとしている。

⑪ 昭和四一年に刊行された「未熟児の保育」において、日本大学教授馬場一雄は、未熟児の保育環境について、生下時体重一二〇〇グラム以下の場合、温度三四度、湿度七〇パーセント、生下時体重一二〇〇グラムないし一四〇〇グラムの場合、温度三二度、湿度七〇パーセント、生下時体重一四〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合、温度三〇度、湿度六〇パーセントが適当としている。

⑫ 昭和四一年に刊行された「臨床小児科全書第一巻」において、中村仁吉は、未熟児保育の重要な注意事項は「呼吸の自立と維持、体温の維持、感染の防止、取扱いを最小限度にとどめること、栄養の注意深い管理、未熟児におこりやすい合併症の予防と治療」であるとする。未熟児の体温の不安定は体温調節中枢の未熟と熱・寒冷に対する皮膚反射の不全によると考えられていること、体温の激しい動揺を招くことは有害であることを指摘する。保育環境は生下時体重一五〇〇グラム以下では温度三二度ないし三四度、湿度八〇パーセントないし九〇パーセント、生下時体重が一五〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合は、温度三〇度、湿度六〇パーセントが適当としている。飢餓期間は生下時体重一・〇キログラムで四八時間、一・五キログラムで三六時間、二・〇キログラムで二四時間としている。早期から大量に授乳すると死亡する場合もあること、飢餓期間と乳量は状態により適宜変更すべきとする。

⑬ 昭和四二年に刊行された「現代小児科学大系第二巻新生児疾患」において、村田文也は、未熟児養護に際して特別の配慮を要する諸原則として、呼吸の確立、体温の保持、感染防止、栄養方法、綿密な観察、おだやかに取扱うことをあげる。保育環境の温度と湿度の目安は、前記⑪の馬場教授の見解と同一である。未熟児の初期の体温は順調でも三四度ないし三六度前後であること、無理に体温を上げようとして環境温度を上げすぎるのは良くないことを指摘している。飢餓期間については前記⑩の村田文也医師と同一基準によっている。

⑭ 昭和四二年に刊行された「今日の治療指針一九六七年版」において、大阪私立大学小児科教授高井俊夫は、保育環境については前記⑪の馬場教授の見解と、栄養面の飢餓期間等については前記⑩の村田医師の見解と同一の基準によっている。

⑮ 昭和四三年に刊行された「今日の治療指針一九六八年版」において、国立小児病院新生児未熟児科医長奥山和男は、未熟児保育の環境及び栄養面の基準につき前記⑭の高井教授と同一の基準によっている。

⑯ 昭和四三年に刊行された「産婦人科治療第一六巻第五号」において、大浦敏明らは、未熟児の腹壁温度を三六度台に維持できれば湿度は四〇パーセントないし六〇パーセントで良いとしたうえで、前記⑪の馬場教授の基準では特に生下時体重一五〇〇グラム以下の児の場合に体温を三六度台に維持できないとし、生下時体重一〇〇〇グラムないし一五〇〇グラムの場合は器内温度を三四度ないし三五度、一五〇一グラムないし二五〇〇グラムの場合、三三度ないし三四度にすべきだとしている。

⑰ 昭和四四年に刊行された「図説小児科学」において、大阪大学教授蒲生逸夫は、未熟児は、むやみに動かさない方が良く、「最少の取扱いが最良の取扱い」といわれていることを指摘している。生下時体重一・二キログラムでは温度三四度、湿度七〇パーセント、一・四キログラムでは三二度、七〇パーセント、二・〇キログラムでは三〇度、六〇パーセントを基準にしている。飢餓期間、食餌量は、生下時体重一キログラムで、飢餓期間四八時間、初回の食餌量(一回)三ミリリットル、翌日の食餌量六ミリリットル、生下時体重一・五キログラムで飢餓期間三六時間、初回の食餌量四ミリリットル、翌日の食餌量八ミリリットル、生下時体重二キログラムで飢餓期間二四時間、初回の食餌量五ミリリットル、翌日の食餌量一〇ミリリットルとしている。

⑱ 昭和四四年に刊行された「今日の治療指針一九六九年版」において、関西医大教授松村忠樹は、生下時体重一二〇一グラムないし一五〇〇グラムの場合、温度三二度、湿度七〇パーセントないし八〇パーセントとし、生下時体重一五〇一グラムないし二〇〇〇グラムの場合、温度三〇度ないし三二度、湿度六〇パーセントないし七〇パーセントとすべきだとしている。飢餓期間、食餌量(初回)は生下時体重一〇〇〇グラムの場合、七二時間、二ミリリットル、生下時体重一五〇〇グラムの場合、四八時間、四ミリリットル、生下時体重二〇〇〇グラムの場合、二四時間、五ミリリットルとしている。

⑲ 昭和四五年に刊行された「今日の小児治療指針」において、都立母子保健院副院長村田文也は、低出生体重児の保育環境基準は体重一二〇〇グラムの場合、温度三四度、湿度七〇パーセント、体重一四〇〇グラムの場合、温度三二度、湿度七〇パーセント、体重二〇〇〇グラムの場合、温度三〇度、湿度六〇パーセントとしている。飢餓期間及び一回の食餌量(開始当日)は、生下時体重一〇〇〇グラムないし一五〇〇グラムの場合、四八時間及び三ミリリットル、生下時体重一五〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合、三六時間及び四ミリリットルとしている。また、観察の要点としては、体温、呼吸、無呼吸発作、チアノーゼ、蒼白、活動力(自発運動)、けいれん、嘔吐、浮腫、黄疸の強さ、感染症の徴候の有無、哺乳の進め方などをあげている。

⑳ 昭和四五年に刊行された「専門医にきく今日の小児診療1」において、国立小児病院医長の奥山和男は、保育器の環境は、前記⑪の馬場教授の基準を目安にするとしている。皮膚温を三六度ないし三六・五度に保つようにするのが適当としている。この皮膚温のとき酸素消費量が最低となるとする。また器内温度は三四度が最高限度であり、湿度は六〇パーセントないし七〇パーセントとすべきとしている。

昭和四六年に刊行された「四季よりみた日常小児疾患診療のすべて」において、国立岡山病院小児科医長山内逸郎は、授乳について、生下時体重一〇〇〇グラムの場合は四八時間飢餓の後三ミリリットルを一回量とし三時間おきに一日八回与えること、生下時体重一五〇〇グラムの場合は三六時間飢餓の後四ミリリットルを一回量とし三時間おきに一日八回与えることとしている。

昭和四七年に刊行された「最新医学第二七巻第一一号」において、北里大学医学部産婦人科講師島田信宏は、「未熟児保育に関する諸問題」と題して、まず保温に関し従来いわれていたより高温で保育することが望ましいと考えられるようになったと述べ、未熟児の直腸温を三七度に保つことが必要だとしている。保育器の温度は、体重一キログラムでは三五度、体重二キログラムでは三四度としている。また輻射による熱損失も考える必要があるので、もし保育器の中と室温との温度差が七度以上あれば、器内温度を更に一度高くする必要があるとしている。次に授乳については、早期輸液により飢餓期間中の脱水や低血糖状態が救われるようになったので、割合ゆっくりと落ちついてから授乳する方針をとっているとする。初体重一〇〇〇グラムないし一五〇〇グラムのときは四八時間、一五〇〇グラムないし二〇〇〇グラムのときは三六時間の飢餓期間をとるとする。初回授乳は五パーセント糖水で、一五〇〇グラム以下は二ミリリットル、それ以上の児は四ないし五ミリリットルを投与し、二、三回目からミルクを投与するとしている。

昭和四七年に刊行された鈴木榮ら編集に係る「最新小児医学」においては、体温の維持について、保育器内温度を生下時体重一〇〇一グラムないし一五〇〇グラムのときは三四度ないし三五度、生下時体重一五〇一グラムないし二五〇〇グラムのときは三三度ないし三四度とするとしている。そして、輻射による熱喪失が体温低下の最大の原因であるので、右目安によるほか、直腸温を三六度以上に保つように努めなければならないとしている。栄養は、出生時体重に応じて一日ないし三日の飢餓期間を置いた後、少量から漸増し、生後一〇日ないし二〇日ころには一日に体重一キログラム当たり一二〇カロリーの熱量と一五〇ミリリットルの水分を摂取できるようにすべきものとしている。

(ウ) 昭和四五年ないし昭和四七年における酸素管理をのぞく未熟児の全身管理に関する臨床医学の実践における医療水準は、次のとおりであった。

(a) 未熟児保育にあたって特に配慮を要する原則は、呼吸の確立、体温の保持、感染防止、栄養方法の確立、綿密な観察、おだやかかつ必要最小限度の取扱いの六点である。

(b) 体温の保持に関しては、未熟児の体温を急激に上昇させること、体温を理想的な値に近付けるために無理をすることは慎しむべきとされていた。また保育器内の温度は三四度が上限で、それ以上は暖めすぎであるとされていた。水分の蒸散による体温、体力の低下を防ぐため、高湿度が望ましいとされていた。具体的な温度・湿度の設定は一般に馬場教授らの提唱するところに従っていた。すなわち、保育環境の原則的数値は、生下時体重一二〇〇グラムないし一四〇〇グラムの場合、温度三二度、湿度七〇パーセント、生下時体重一四〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの場合、温度三〇度、湿度六〇パーセントである。

なお、昭和四七年ころから、右の基準より高温の環境下での保育を適当とする見解が主張されるようになったが、この考え方は昭和四五、六年当時には、いまだ実践的医療水準とはなっていなかった。

(c) 栄養管理については、授乳は未熟児の消化器官の未発達などを理由に、遅い方が良いとされていた。飢餓期間、授乳量は見解により異なり、また児の状態によって増減すべきとされていたが、共通の目安としては、生下時体重一・〇キログラムないし一・五キログラムの場合は、飢餓期間が三六時間ないし七二時間、初回授乳量が二ミリリットルないし四ミリリットル、翌日が一回六ミリリットルないし八ミリリットルであり、生下時体重一・五キログラムないし二・〇キログラムの場合は、飢餓期間が二四時間ないし四八時間、初回授乳量が四ミリリットルないし五ミリリットル、翌日は一回八ミリリットルないし一〇ミリリットルとされていた。授乳は普通一日八回行うとされていた。

その後、授乳を早期に開始すべきであるとの見解も出されたが、これは昭和五〇年代に入ってからのことであった。

(d) 保育の際の観察は異常を見逃すことのないように綿密に行われることを要する。観察の要点は、体温、呼吸、無呼吸発作、チアノーゼ、蒼白、活動力(自発運動)、けいれん、嘔吐、浮腫、黄疸の強さ、感染症の徴候の有無、哺乳の進め方などである。

(2) 酸素管理について

《証拠省略》を総合すると、次の各事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

(ア) 本症と酸素の間に関連性があるのではないかとの指摘は、昭和二九年に刑行された文献の中にすでに存在する。「産婦人科の世界第六巻第七号」において、日本医科大学教授三谷茂が外国の文献中にこの指摘があることを紹介している。その後、外国において、本症と酸素との関連性が次第に明確にされたのを反映して、わが国の昭和三〇年代前半の文献においても、酸素の投与基準を検討すべきであるとの指摘がみられるが、そこで示された基準は、当時わが国において本症の発生があまり問題にされていなかったこともあって、外国で示されたものをそのまま掲載しているものが多い。

例えば、昭和三〇年に刑行された「眼科最近の進歩」において東京大学の鹿野信一は「耳新しい二、三の眼疾について」と題して本症に触れ、外国で示された基準を

① 早産児に対する酸素の適用は最小限の必要量に制限すること(酸素濃度は四〇パーセント以下)。

② 酸素補給の停止は徐々に濃度を下げて行う。

③ 逆に本症を早期に発見した場合は、適切な酸素補給法によって治癒しうる(初期の本症の病変は可逆的である。)。

としている。

(イ) 昭和三〇年後半の文献でも、呼吸困難またはチアノーゼが出現している場合に酸素投与の適応があるとしているものが多い。酸素濃度については、三〇パーセントでも十分という報告もあるが、大多数は上限を四〇パーセントとしている。酸素投与を中止する際には、徐々に濃度を下げるべきだとの指摘も繰り返しされている。例えば昭和三六年に刑行された「未熟児の取扱い」において、江口篤寿は、未熟児に対する酸素吸入の原則として

① 酸素吸入によって呼吸不整、チアノーゼが改善される場合には十分な酸素を使用する。

② 酸素は連続的でなく断続的に与える方がよい。

③ 酸素はルーチンとしてではなく本当に必要であるときにのみ使用する。

④ 酸素は児の状態が改善されるのに必要な最少限度の濃度で使用すべきである。しかし、必要な場合には、高い濃度で使用することも躊躇すべきではない。

⑤ 酸素使用は必要な最短時間に止めるべきである。

をあげたうえ、酸素吸入を必要とする場合とは、呼吸不整が著しいとき、チアノーゼがあるときであるとし、右呼吸不整は多少のものでは足りず、胸壁の陥没、著しい呼吸不整、しばしば無呼吸発作が起る場合には酸素投与が必要であるとし、酸素濃度については四〇パーセント以内なら本症については安全との知見が得られているとしている。

(ウ) 昭和四〇年代前半の文献では、酸素管理の必要性を認める方向がほぼ定着していた。ただ、酸素と本症との関連性が指摘される反面、未熟児に頻発する呼吸障害、チアノーゼの治療において酸素が不可欠なことから、管理内容には若干の差がある。

多くの見解は、酸素投与はルーチンに行ってはならず、チアノーゼ又は呼吸困難のある場合に限って行うべきであり(説によってはチアノーゼのある場合に限って行うべきとする。)、濃度は四〇パーセント以内とし症状が消失すれば速やかに投与を中止し、あるいは濃度を漸減しながら投与を中止すべきであるという内容のものである。もっとも、これらの見解においても、必要以上に酸素投与に慎重になるべきではないとされている。例えば、馬場一雄は、「未熟児の保育」(昭和四一年刊行)において、「酸素濃度を四〇パーセント以下に止め、極端に長期にわたらぬよう注意すれば、酸素治療は大した危険を伴なうものではないと考える。むしろ失明の危険をおそれて酸素の投与を制限したために、貴重な人命を失なうことをこそ警戒すべきであると思う。」としている。また、四〇パーセントの濃度の投与でチアノーゼが消失しないときは、それ以上の酸素を与えるべきだとする考え方も多く示されている。アメリカ小児学会の「眼に傷害を与える可能性があるからといって、酸素の任意の使用(そしておそらくは生命をも)を否定するのは賢明でない。」との見解を紹介するもの(遠城寺宗徳監修代表「現代小児科学大系第二巻新生児疾患」昭和四二年刊行)もある。

他方、昭和四三年に刊行された「産科と婦人科第三五巻第四号」において、日本赤十字社産院の三谷茂らは、未熟児では肺の未熟に加えて種々の原因による呼吸困難、無酸素症等が起りやすいので必要にして十分な酸素を投与することが大切であるとしたうえで、生下時体重一・五キログラム以下及び緊急帝王切開児には通常、当初より酸素を与える、一・五キログラムないし二・〇キログラムの児には原則として一二時間酸素を与える、二・〇キログラム以上の児には当初より酸素を与えることはしない、無呼吸、チアノーゼ、その他一般状態不良の児に対しては体重にかかわらず酸素を与えることはもちろんである、濃度は一応三〇パーセントないし三五パーセント程度とし、必要に応じ四〇パーセントまで増加する、それでもチアノーゼが消失しなければ消失するまで濃度を上げるとしている。また、同年刊行された「治療第五〇巻第一一号」で東北大学医学部産婦人科教授九嶋勝司らは、生下時体重二〇〇〇グラム以下の児には、出生直後は呼吸障害症状がなくとも原則として三〇パーセントないし四〇パーセント程度の酸素吸入を行っていることを紹介している。

(エ) ところで、昭和四三、四年の文献には、保育器内の酸素濃度を一定限度に保つ方法で酸素を管理し、本症の発生を予防しようとする考え方を再検討すべきであるとの見解があらわれている。これは、未熟児の身体に作用する酸素の中で重要なのは環境中の酸素ではなく動脈血中の酸素であることが明らかにされて、呼吸障害やチアノーゼの解消、本症発生の予防には動脈血中酸素分圧を問題とすべきであるとされたこと、環境中の酸素濃度を一定にしても動脈血中の酸素分圧が一定値を示すわけでないことが明らかにされたことによって生じた考え方である。この見解では酸素管理の方法について、動脈血中酸素分圧を監視し、これを適正な値に維持しておけばよく、場合によっては一〇〇パーセントの酸素を用いても構わないとして、個々のケースにより使用する酸素濃度を調節すべきであるとしている。そして、当時、この見解をとる者の多くは、動脈血中酸素分圧の適正値は一〇〇mmHgないし一五〇mmHgであるとし、一〇〇mmHgより下では未熟児は予後不良となり、一五〇mmHgないし一六〇mmHgを越えて長期投与をすると本症の危険があることを指摘して、動脈血中酸素分圧の測定を勧めていた。また、各ケースごとに酸素の投与量を調節する方法としては、一度チアノーゼが消失するまで酸素濃度を高め、チアノーゼが消失したら次第に濃度を下げてチアノーゼが軽く出現する濃度を見出し、それ以後はその濃度の四分の一を増やした濃度の酸素を与える方法(ワーレー・アンド・ガードナー法)が紹介されている。

(オ) 昭和四〇年代後半の文献では、そのほとんどが動脈血中の酸素分圧を監視しつつ酸素投与量を調節するのが最善の方法であるとしている。動脈血中酸素分圧の適正値については、見解が分かれており、一三〇mmHg以下とか五〇mmHgないし一〇〇mmHgの間にすべきであるとの説がある。昭和四八、九年には、アメリカ小児科学会の示した一〇〇mmHgを越えず六〇mmHgないし八〇mmHgの間に保つべきであるとの基準を引用する文献が多くなっている。

(カ) 昭和四五年ないし昭和四七年における酸素管理の臨床医学の実践における医療水準は、概略次のとおりである。

(a) 未熟児の呼吸窮迫症候群などの呼吸障害及び脳性麻痺を防ぐため、酸素投与が必要である。

(b) 酸素の過剰の投与は、未熟児網膜症(昭和四五年当時の臨床医の多くの者の認識は水晶体後部線維増殖症である。)の原因となるから、投与する酸素の濃度は四〇パーセント以下に制限すべきである。

(c) 昭和四五年当時の臨床医で未熟児網膜症の発症を臨床例として現実に経験したものはほとんどなかった。濃度四〇パーセント以下の酸素を投与すれば、本症の発生はない、と考えられていた。それ以上に酸素投与を制限する基準は確立していなかった。

(d) 昭和四六年当時の酸素管理に関する実践における医療水準は、昭和四五年当時のそれと比べ大きな変化はなかった。

(e) 昭和四五年ないし昭和四七年当時、学界においては、未熟児網膜症に対する治療方法として光凝固法が有効である旨の報告が行われていた。昭和四七年ころには、臨床医の中にも、未熟児網膜症の発生と光凝固法の存在が知られ始めていた。しかし、酸素投与の基準としては、酸素濃度を四〇パーセント以下にし、不必要な酸素投与を制限する、という以上に具体的な基準は確立していなかった。

(f) 文献上では、動脈血中酸素分圧の測定による酸素管理方法及びワーレー・アンド・ガードナー法による酸素管理方法が掲げられていた。しかし、臨床の実践の場面で酸素分圧を測定する方法は、昭和四七年当時確立していなかった。酸素分圧による酸素管理方法は医学水準となっていなかった。ワーレー・アンド・ガードナー法も、医学水準として確立したものではなかった。

(二) 眼底検査について

《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができ、これを覆すに足りる証拠はない。

本症の早期発見と病状把握のために眼底検査を行う必要があることは、昭和三〇年代初めの論文中で既に指摘されていた。そして、昭和三九年に植村恭夫がわが国における本症増加の危険性を具体的に指摘する啓蒙的論文を発表した。しかし、一般の注目をひくことはなかった。昭和四〇年前半に出版された本症に関する論文でも、定期的眼底検査を中心とする眼科的管理の必要性に触れるものが多い。昭和四一、二年ころ、植村恭夫のいた国立小児病院や、永田誠のいた天理よろづ相談所病院において、小児科と眼科の協力体制が組まれ、眼科的管理を試みた。しかし、このような協力体制の実践もわが国の先駆者的立場において本症の研究を進めていたごく少数の者による実験的な試みであった。

このような状況のもとで、眼科的管理の必要性を具体的に広く浸透させるきっかけとなったのは、永田誠らの光凝固法による本症治療成功例の発表であった。眼底検査は、それまでの単なる症状の発見・把握の手段から、治療の適期を決めるための不可欠の前提として位置付けられるようになった。光凝固法の成功例の発表が重なるにつれて定期的眼底検査を中心とする眼科的管理の必要性についての認識は深まり、昭和四七年に永田らによる光凝固法施行二五症例が発表された後の昭和四八年ころ以降には、その必要性に関する知見は一般化するに至った。

しかし、全国各地において実際に眼底検査を行うことが可能になるまでには、まだ時間を要した。その理由は、主に検査を実施するための人的・物的条件を整える必要があったからである。未熟児の眼底所見を的確に把握するには、正常なもの、各病期にあるものを多数実際に見て経験を積むことが不可決である。ところが、当時各医科大学では医学生・研修生に対して未熟児の眼底検査に関する指導をしていなかったばかりか、指導者自体が不在というところすらあった。また検査には、ボンノスコープや倒像検眼鏡などの器具をそろえる必要があった。大学病院や国立病院等をはじめとする主な病院で定期的眼底検査を中心とする眼科的管理を実施するようになったのは昭和四〇年代末から昭和五〇年ころになってからのことであった。

実際に、北海道においても、北海道大学医学部の病院で本症の活動期にある患者をはじめて診察したのは昭和四五年のことである。したがって、それ以前の卒業生には活動期にある眼底を見る機会はなく、この点についての教育はされていなかった。またこの患者の出現を契機として、同年一一月ころに同病院の産科と眼科の間で未熟児の眼底検査に関する申し合わせができた。この申し合わせは北海道大学内部のことであって、当時道内では他に小児科、産科、眼科の協力体制がとられる状況にはなかった。

以上のとおり、昭和四五年ないし昭和四七年においては、右定期的眼底検査を中心とする眼科的管理の必要性に関する知見すら一般的になっておらず、まして具体的検査の実施は、一般的医療水準の内容となっていなかった。

(三) 本症に対する治療方法について

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 薬物療法について

本症を薬物投与によって治療しようという試みは、米国及びわが国において繰り返し行われている。これまでにビタミンE、ATP、蛋白同化ホルモン、止血剤、ステロイドホルモン、ACTHと様々な薬物が投与されているが、その効果を認めるに足りる十分なデーターはない。したがって、本症を薬物投与によって治療しうるとの知見は今日まで確立されていない。

(2) 光凝固法について

光凝固法とは、高エネルギーの光束を集光して、主としてその熱作用によって、組織の蛋白凝固を行うものである。そもそもは黄斑円孔の凝固を目的として出発したが、その後中心性網膜炎や網膜剥離などの予防・治療に活用されるようになった。

この方法を最初に本症の治療に応用し、成功したと報告したのは、天理よろづ相談所病院の永田誠らのグループである。永田らは、昭和四三年四月に刊行された「臨床眼科第二二巻第四号」に「未熟児網膜症の光凝固による治療」と題する報告を載せ、昭和四二年三月二四日と同年五月一一日の二度にわたり光凝固法による本症の治療を試み、二例とも「これによって病勢は頓挫的に終熄し、その後増殖性網膜炎の進行は見られなくなった。」と報告した。永田は、同年一〇月に刊行された「眼科第一〇巻第一〇号」においても、右二例を光凝固法による本症治療の成功例として報告した。

右の報告は、本症の治療に苦慮していた研究者に対して大きな反響を及ぼした。その後、永田らは追加症例を発表し、また、他の研究者による追試や各論文等における本症治療法としての光凝固法の紹介が相次いだ。その概要は次のとおりである。

(ア) 昭和四五年二月に刊行された「小児外科内科第二巻第二号」において、関西医科大学の岩瀬帥子らは、本症の治療法として光凝固法が提唱されていることを紹介した。また名鉄病院眼科の池間昌男も、同年三月発行の「現代医学第一七巻第二号」において、光凝固法により本症罹患児の視力が保証されるとした。

(イ) 昭和四五年五月に刊行された「臨床眼科第二四巻第五号」において、永田らは、最初の報告例の後に光凝固法を施行した四例を報告し、「六例における治療経験から、重症未熟児網膜症活動期病変の大部分の症例は適切な時期に光凝固を行なえばその後の進行を停止せしめ、高度の自然瘢痕形成による失明または弱視から患児を救うことができることはほぼ確実となった。」とし、「光凝固を施行して治癒せしめうることが明らかとなった以上、本治療法が今後全国的な規模で積極的に採用されることを希望してやまない。」とした。永田は、同年一一月に刊行された「臨床眼科第二四巻第一一号」において、更に六例について追加報告して、その報告例は合計一二例となったが、この中で、同人は「光凝固は現在本症の最も確実な治療方法ということができる。」とし、「本邦からの未熟児網膜症の失明例を根絶することも夢ではない。必要なことは眼科医、小児科医の熱意であり、行動力であると思われる。」としている。

(ウ) 右(イ)の永田の二つの論文のそれぞれ後になる昭和四五年七月刊行の「小児科第一一巻第七号」と同年一二月刊行の「日本新生児学会雑誌第六巻第四号」において、植村恭夫は、光凝固法による治療を薬物療法と並べて紹介している。右二つのうち、後者の論文において植村は光凝固法によって「未熟児網膜症は、早期に発見すれば、失明または弱視にならなくてすむことがほぼ確実となった。」としている。

(エ) 昭和四六年四月に刊行された「臨床眼科第二五巻第四号」において関西医科大学の上原雅美らは五例の光凝固法施行例を報告し、「時期を選んで光凝固法を行なえば、放置すれば重症な瘢痕を残したと推定される症例に対しても確実にその進行を阻止し得る。」とした。

(オ) 昭和四六年六月に刊行された「日本新生児学会雑誌第七巻第二号」において、永田らは、三例を追加報告して、その報告例は合計一五例となったが、二例を除いて症状進行の急激な停止、次いで軽快が見られていると報告した。

(カ) 昭和四六年九月に刊行された「日本眼科紀要第二二巻第九号」において、九州大学の大島健司らは、二三例に光凝固法を施行し、二一例で著効、一例で不良、一例では片眼著効、片眼不良との結果を得たと報告した。

(キ) 昭和四六年九月に刊行された「四季よりみた日常小児疾患の診療のすべて」において、植村恭夫は、治療法として光凝固法を紹介し、「現在最も有効な治療法」としている。また、同年一〇月に刊行された「季刊小児医学第四巻第四号」と同年一一月に刊行された「日本小児科学会雑誌第七五巻第一一号」において、奥山和男は、光凝固法を本症の治療法として紹介し、後者では「永田らが世界に先がけて開発した方法であり、現在唯一の有効な治療法」であるとした。

(ク) 昭和四六年一一月刊行された「現代医学」の中で、名鉄病院の田邊吉彦は、光凝固法を二五例に施行したところ、無効であったのは二例のみであるとした。

(ケ) 昭和四七年三月、永田らは、「臨床眼科第二六巻第三号」において、天理よろづ相談所病院における五年間の総括として、合計二五例に達した光凝固法施行の結果を報告した。重症瘢痕を残したものは二例で、他の六例では乳頭耳側牽引等を残したが、そのほかはすべて完全治癒したと報告した。重症瘢痕を残した二例は治療の適期をすぎていたとし、今後は定期的眼底検査で本症を早期に発見し、適期に光凝固ないしは冷凍凝固を施すべきであるとしている。

(コ) 昭和四七年五月に刊行された「日眼会誌第七六巻第五号」において、田辺吉彦と池間昌男は、名鉄病院において二三例四六眼に光凝固法を施し、二例四眼が無効であったとした。

(サ) 昭和四七年六月に刊行された「小児科臨床第二五巻第六号」において、岩瀬帥子らは、一三例に光凝固法を施行し、予後は良い結果が得られているとした。

(シ) 昭和四七年六月に刊行された「小児科臨床第二五巻第六号」において、植村恭夫は、「現行の治療法として光凝固や冷凍凝固にまさるものはない。」としつつも、本症は自然治癒することが多いこと、光凝固法が病理組織学的には網膜組織に障害を生ずるものであること、長期間の観察で光凝固による障害がないことが明らかになったわけではないことから光凝固法の適応を決するには慎重にならざるをえないとした。未熟児の一、二パーセントのみが治療の対象となるとしている。また、活動期病変が停止あるいは軽快するかに見えて、突如として活動性となり急速に網膜剥離へと進む例があることをあげ、このような場合には治療の適応を決めるのがむずかしいとした。

(ス) 昭和四七年六月に刊行された「眼科第一四巻第六号」において大島健司が、また、同月刊行された「小児科臨床第二五巻第六号」において奥山和男らが、それぞれ本症の有効な治療法として光凝固法を紹介している。

(セ) 昭和四七年七月に刊行された「臨床眼科第二六巻第七号」において、兵庫県立こども病院小児科の田渕昭雄らは、一〇名に対して光凝固法を行い、八名についてはその進行を阻止できたとした。しかし、そのうち一名については三回の再凝固術を行って進行を止めえなかったこと、進行を阻止できなかった症例の内容を考えると光凝固法は絶対的な治療ではないと言えるとした。

(ソ) 昭和四七年七月に刊行された「小児科臨床第二五巻第七号」において、国立大村病院小児科診療センターの増本義らは、未熟児網膜症は一二〇例中三〇例に見られたが、二〇例が自然治癒した、残る一〇例は光凝固あるいは凍結凝固を行った、凝固例すべてに強い視力障害は残らないものと思われるとした。

(タ) 昭和四八年七月に刊行された「眼科臨床医報第六七巻第七号」において、国立習志野病院の飯島幸雄らは、三例に光凝固法を施行して、一例は無効、一例は重症瘢痕を残し、残る一例は経過観察中と発表した。

(チ) 昭和四八年一二月に刊行された「通信医学第二五巻第九号」において、大阪北逓病院の浅山亮二らは、五例に光凝固法を施行し、四例で軽い瘢痕を残すのみとなったが、一例の結果は不明と報告した。

(ツ) 昭和五〇年一月に刊行された「眼科臨床医報」において、島取大学の瀬戸川朝一らは、五例七眼に光凝固法を施行し、三例四眼においては一回の施行で著効を得たが、二例三眼のうち一眼は三回の施行の後、瘢痕を残す状態で固定し、残る二眼は二回ないし三回施行したものの全剥離を来たしたとした。眼底が様変わりしないわずかの期間を逃すことなく適確な断判で迅速な施行をすることが必要であるとした。

(テ) 昭和五〇年三月に刊行された「日本の眼科第四六巻第三号」において、大阪市立小児保健センターの湖崎克は、光凝固法が高く評価されているとしながらも、急速に進行増悪する症例で効果が不良であった例があるなどの問題点があること、網膜周辺の瘢痕形成によって将来の眼球発達に悪影響が起らないかという不安があることを指摘した。そのうえで、「自然治癒の可能性の有無について十分確かめた上で実施し、網膜への無用な侵襲を避けるべきである。」とし、「もちろんあらゆる症例に有効であると決めることはできない。」とした。

(ト) 昭和五一年一月に刊行された「臨眼第三〇巻第一号」において、名古屋市立大学の馬嶋昭生らは、「本法実施の時期、方法などについては多くの症例を長期に観察してなお検討の余地がある。」「視機能、晩発性合併症を考えると光凝固法実施の時期についてはなお今後の研究にまたねばならない多くの問題を残しているが、瘢痕も全く残さずに自然治癒する症例に病期を短縮するだけの目的で永久的な人工的瘢痕を残すような治療には賛成できない。」とした。更に、同人は、同年三月に刊行された「日本新生児学会雑誌第一二巻第一号」において、光凝固法が「現在では最も確実な治療法となっている。ただ治療後の長期観察結果に乏しいこと、術者の考え方、使用する凝固装置、凝固の方法の違いなどによって、本法を施行する時期についての基準が確立していない。」と指摘した。

(ナ) 昭和五一年八月刊行された「診断と治療第六四巻第八号」において、徳島大学の三井幸彦は、本症に光凝固法が濫用されているとし、同法の有効性はまだ研究中で、研究家が行うのは許されるが、一般的な方法として応用する段階には至っていないと指摘した。

以上のとおり、永田らが発表した光凝固法による本症の治療は、当初研究者らによって画期的な方法として受けとめられ、有効とする追試例が相次いだ。しかし、その後、治療の適応をめぐって検討がなされるようになった。その際問題とされたのは、浴療の適期がどこまでか、自然治癒する場合との区別をどのようにつけるのか、光凝固法を行った場合の長期的な予後はどうなるのか、症状が急変するタイプに対しても有効かといった諸点であった。したがって、昭和四〇年代後半においては、光凝固法は、本症の治療法としては未だ追試、検討が加えられている段階であったのであり、本症の治療法に関する一般的医療水準の内容とはなっていなかった。

その後、前記厚生省研究班報告にいうⅠ型のほとんどが自然治癒することが明らかにされて、この型について光凝固法の施行の必要性が疑問視され始めたこと、Ⅱ型に対する適切な施行が困難であると指摘されるようになったこと、凝固による網膜への影響がはっきりしていないことなどの理由から、本症に対する光凝固法の有効性に関する評価は、未だ定まっていない状態にある。

(3) その他、冷凍凝固法なども含めて昭和四五年ないし昭和四七年当時はもちろん、現在に至るも本症に対する確立された治療方法はない。

3  小樽市立病院の具体的医療環境

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

小樽市立病院小児科には、昭和四五年当時、三名の医師が勤務していた。医長は今井浩医師で、他は、畑江医師と松浦信夫医師であった。松浦医師は、昭和四五年六月中旬ころ留学した。そのため、同年六月一日から、上原秀樹医師が加わった。今井医師は、毎日午前中の外来患者の診察を担当した。他の二名の医師は、交代で午後の外来患者の診察をした。今井医師を除く二名は、入院患者の治療を同数ずつ分担し、毎日二回ほど回診していた。今井医師は、特に入院患者の受持ちを決めなかったが、週二回ほど全患者を回診した。三人の医師は、必要に応じて、随時診療内容を協議していた。当時の同科のベッドの定数は、三〇であった。保育器は一〇台前後あった。入院患者は大体三〇名前後で四〇名に達することはなかった。

今井医師は、昭和三二年に北海道大学を卒業し、昭和三三年に医師免許を取得した。昭和三三年に大学院に入り、昭和三七年に大学院を卒業した。その後、北海道大学医学部助手を経て、昭和三八年から昭和四四年六月まで帯広協会病院小児科に勤務した。昭和四四年六月から同年一二月までは、国立札幌病院小児科に勤務した。昭和四四年一二月から小樽市立病院小児科医長となった。昭和四五年当時までに四、五千人の新生児を取り扱った経験がある。その約六パーセント位が未熟児であった。未熟児網膜症の存在は知っていたが、原告一郎の場合より以前に自ら扱った児に本症が発生したことはなかった。当時、日本小児科学会と日本新生児学会に所属していた。

以上認定したところによれば、今井、松浦、上原の各医師は、通常の小児科医として、当時の一般的医療水準の内容となっている知見を有すべきであり、また小樽市立病院には右一般的医療水準に適合する措置が可能な体制が存したものと認められる。

4  原告一郎の主治医の義務違反について

(一) 全身管理義務違反について

以下のとおり、原告一郎の主治医には全身管理義務違反があったと認めることはできない。

(1) 注意深い全身の観察の懈怠

《証拠省略》(カルテ)によれば、医師が原告一郎を診断した旨の記載があるのは原告らが指摘する昭和四五年五月二七日、二九日、三〇日、六月二日、四日、一〇日の六日間だけであることが認められるものの、右カルテの記載をもって、直ちに医師が右の六日間しか診察しなかった、と推認することはできない。また《証拠省略》(温度表)には、初日を除き呼吸数の記載がないが、《証拠省略》(看護日誌)には呼吸状態に関する記載があること及び《証拠省略》に照らし、右温度表に呼吸数の記載がないことをもって、呼吸に関する観察がなかった、と認めることはできないことは明らかである。

前記認定のとおりの原告一郎の視力障害発生に至る経緯及び小樽市立病院の具体的医療環境並びに鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らし、原告一郎の主治医が原告一郎について全身観察を懈怠したものとは認められず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

(2) 体温管理の不適切

原告らは、保育器内の温度を三〇度ではなく三四度に設定すべきであった旨主張し、仮に保育器の温度を三〇度に設定したことを是認するとしても、原告一郎の体温が上昇しないときは体温が三六・五度になるように調節すべきであった旨主張する。

しかしながら、前記認定のとおりの昭和四五年当時の未熟児に対する体温管理の医学水準(すなわち、生下時体重一四〇〇グラムないし二〇〇〇グラムの未熟児の場合には保育器内の温度は三〇度に設定する、というのが当時の一般的見解であり、未熟児の体温を急激に上昇させることは慎しむべきであるとされていた。当時も保育器内の温度は三四度を上限とするとの見解もあったし、原告一郎を収容した保育器は、三五度を越えては作動しないように設計されていたことが認められ、三〇度の温度設定では低すぎるとの批判もあろうが、昭和四五年当時は、三四度という温度は、生下時体重一二〇〇グラム以下という極めて状態の悪い児について適当とされたもので、原告一郎のごとく生下時体重一九八〇グラムの児について適用することは、臨床医学の実践における医学水準にはなっていなかった。)及び鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らせば、《証拠省略》をもって、前記第一、四、1で認定した原告一郎についての体温管理の状況が当時の実践の場における医学水準を逸脱したものであると認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

(3) 酸素管理の不適切

前記説示の昭和四五年当時の酸素管理に関する医学水準(すなわち、酸素濃度を四〇パーセント以下に制限する、とするほかに具体的な制限基準は確立されていなかった。)及び鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らすと、前記第一、四、1で認定した原告一郎の体重、体温、呼吸状況及びチアノーゼの発生状況のもとで、昭和四五年五月二七日午前五時三〇分から同年六月二三日午前一〇時までの間毎分三リットル(《証拠省略》によれば、毎分三リットルの酸素を投与すると、保育器内の酸素濃度は三三パーセントないし三七パーセントになると認められる。)の酸素を投与したことをもって、当時の臨床医学の実践における医学水準に照らして医師にまかされた裁量の範囲をこえた許されない処置であった、とまで断ずることはできない。原告らの主張に沿う《証拠省略》は、前示の昭和四五年当時の臨床医学の実践における医学水準に照らし、採用できない。

原告らは、酸素濃度の測定がされておらず、動脈血中酸素分圧を測定されなかったことを酸素管理の手落ちである旨主張する。しかし、昭和四五年当時、酸素濃度を測定器をもって正確に測定すること及び動脈血中酸素分圧を測定することが、臨床医学の実践の場において可能であり、これらのことが医学水準として確立されていたことを認めるに足りる証拠はないから、右各測定をしなかったことをもって主治医の義務違反と認めることはできない(なお、《証拠省略》によれば、原告一郎の入院当時、小樽市立病院にはアストラップと呼ばれる動脈血中酸素分圧測定器があったが、右の機器は、小児科が保管していたものではなく、一回の検査に二ミリリットルの血液が必要で、しかも専任の検査技師が約三〇分をかけて検査する必要があったもので、未熟児の酸素管理に使用することは、事実上不可能であった、と認められる。)。

その他、酸素管理義務違反を認めるに足る証拠はない。

(4) 栄養管理の不適切

前記説示の未熟児の栄養管理に関する医学水準及び鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らすと、前記第一、四、1で認定した原告一郎についての栄養管理状況が当時の未熟児についての栄養管理に関する水準に違反する、と認めることはできず、《証拠省略》(原宏医師作成の鑑定書)をもってしても、担当医師らに、栄養補給(哺乳、補液量)などの栄養管理に関して義務違反があったものとは認められず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

(二) 眼底検査義務違反及び治療義務違反について

原告一郎が出生した昭和四五年当時には、本症の早期発見・早期治療のために眼底検査が必要であること及び本症の治療方法として光凝固法が有効であるということが、臨床医学の実践における医療水準として確立されていたとは認められないことは、すでに説示したとおりである。

したがって、原告一郎に対して眼底検査をしなかったこと、光凝固を実施しなかったこと及び右の検査もしくは治療のために転医させなかったことをもって、原告一郎の主治医らの義務違反である、ということはできない。

(三) 説明義務違反について

眼底検査及び光凝固法を説明する法的義務が肯定されるのには、眼底検査及び光凝固法の実施が実践の場における医学水準として確立されていることが前提となるものと解するのが相当であるところ、昭和四五年当時眼底検査及び光凝固法の実施が医学水準として確立されていた、と認めることができないことは、前記説示のとおりである。

したがって、原告一郎の主治医らに、眼底検査や光凝固法についての説明義務があった、とは認められない。

5  被告小樽市の債務不履行責任について

原告一郎の主治医らに原告ら主張のような義務違反を認めることができないことは、前記4で説示したとおりであるから、原告一郎、原告太郎及び原告花子の被告小樽市に対する債務不履行を理由とする損害賠償の請求は、いずれも理由がない。

6  被告小樽市の不法行為責任について

同様に、原告一郎、原告太郎及び原告花子の原告一郎の主治医らの義務違反を前提とする被告小樽市に対する使用者責任を理由とする損害賠償の請求は、いずれも理由がない。

7  被告小樽市の国家賠償法に基づく責任について

国家賠償法第二条第一項所定の「営造物の設置又は管理に瑕疵」があるとは、営造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいう、と解されているところ、すでに認定・説示した昭和四五年当時の未熟児網膜症に対する予防及び治療方法の医学水準に照らすと、仮に小樽市立病院の物的人的施設を総合体として「公の営造物」と把えうるとしても、昭和四五年当時において小樽市立病院の物的及び人的設備・体制として、原告らが主張するとおりの器機及び医師等を配置すべきであった、と認めることはできないから、原告一郎、原告太郎及び原告花子の国家賠償法に基づく被告小樽市に対する損害賠償請求はいずれも理由がない。

六  よって、原告一郎、原告太郎及び原告花子の被告小樽市に対する各請求は、いずれも理由がない。

第二原告秋夫、原告春夫及び原告夏子の被告横尾に対する各請求関係

一  請求の原因1(二)及び(五)の事実(当事者)は、当事者間に争いがない。

二  請求の原因2(二)の事実(診療契約の成立)は、当事者間に争いがない。

三  請求の原因3(二)の事実(原告秋夫の視力障害の発生)のうち、原告秋夫は、昭和四五年一二月二五日に横尾病院で出生したが、在胎期間が二八週で、生下時体重が一三〇〇グラムの未熟児であったこと、原告秋夫が、同日から昭和四六年二月二五日まで保育器内に収容されたこと、昭和四五年一二月二五日から昭和四六年一月二日までの九日間酸素投与を受けたこと、投与量が当初毎分三リットルであったこと及び同年三月九日に体重二八五〇グラムで退院したことは、当事者間に争いがない。

また、《証拠省略》を総合すると、原告春夫及び原告夏子が、昭和四六年二月下旬ころ、原告秋夫の目の異常に気付いたこと、同年三月に国立小児病院の医師植村恭夫により未熟児網膜症と診断されたこと、原告秋夫の視力は左右とも〇で明暗弁程度であることが認められる。

四  そこで、原告秋夫の視力障害発生の原因について検討する。

1  原告秋夫の視力障害発生に至る経緯

前項で認定した各事実のほか《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告夏子は、昭和四三年四月、原告春夫と結婚した。昭和四三年七月、妊娠したが、昭和四三年一二月二五日、雪かきをしていたところ、自然流産した(それ以前に二回ほど人工中絶した経験があった。)。翌四四年にも妊娠したが、同年七月末に切迫流産のような状況になった。当時通院していた札幌市の斗南病院の診察を受けた。入院が必要と判断された。しかし、斗南病院にはベッドの空きがなかった。斗南病院の紹介で横尾病院に入院した。主治医は被告横尾であった(この点は、当事者間に争いがない。)。検査の結果、正常妊娠ではなくて、胞状奇胎であることが判明した。これを排除する人工妊娠中絶手術を受けた。昭和四四年八月に退院した。その後も、横尾病院に通院して術後管理を受けた。その間、被告横尾の指導により受胎制限をした。昭和四五年四月に被告横尾から妊娠しても良いといわれた。同年六月に妊娠した。被告横尾の診察を受け、定期検診のため横尾病院に通院した。同年九月にはカンジダ症になりその治療を受けた。

(二) 原告夏子は、昭和四五年一二月一五日、出血を見た。被告横尾は、家で安静にするよう指示した。原告夏子は、同月二三日にも、出血があった。被告横尾の診察を受けた。被告横尾は、流産防止の薬を与え、家で安静にするよう指導した。入院は指示しなかった。原告夏子は、昭和四五年一二月二五日午後四時ころから、腹痛も覚えるようになった。昭和四五年一二月二五日午後八時一〇分ころ、横尾病院に入院した。被告横尾が内診したところ、子宮口は全開大で胎胞膨隆していた。原告夏子は、切迫早産と診断された。同日午後一一時ころ破水した。同日午後一一時八分に分娩した。児(原告秋夫)は在胎二八週、生下時体重一三〇〇グラムの男児であった。

(三) 原告秋夫は、出生時、大声で啼泣した。しかし、未熟児であり、チアノーゼがあったので、被告横尾は原告秋夫を直ちに保育器に収容した。毎分三リットルの酸素を連続投与した。保温を行った。

(四) 昭和四五年一二月二六日午前五時四〇分ころ、原告秋夫は、四肢を活発に運動させていた。午前七時ころ、嘔吐とおえつがあった。午前一〇時ころ、四肢の運動は活発であったが、手足にチアノーゼがあった。午後二時三〇分ころ、嘔吐があった。啼泣が強かった。午後六時四四分ころ、多量の排便があった。啼泣した。午後八時ころ啼泣が強かった。午後八時二〇分ころには啼泣したが、四肢の運動は活発であった。午後八時四〇分に嘔吐があった。二六日は、平均して毎分一リットル位の酸素を連続投与した。一日の酸素投与量は合計約一五〇〇リットルであった。

(五) 同月二七日午前零時三五分ころ、下肢に軽度のチアノーゼがあった。午前一〇時三〇分ころは、四肢の運動が活発であった。酸素投与を中止し、観察した。その後酸素投与を再開した。午後一時ころ、口にものを吸うような形が見えた。午後九時五〇分ころ、強く啼泣し、四肢の運動が活発であった。二七日も平均して毎分一リットル位の酸素を連続投与した。一日の酸素投与量の合計は約一五〇〇リットルであった。

(六) 同月二八日午前一時一〇分ころ、啼泣が強く四肢の運動は活発であった。午後二時四〇分ころ、啼泣が強く、また口にものを吸うような形が見えた。糖液を三滴舌入した。午後三時四〇分ころ、栄養カテーテルを挿入し、三分位かけて糖液二ミリリットルを与えた。嘔吐した。午後八時、糖液二ミリリットルを与えた。二八日も平均して毎分一リットル位の酸素を連続投与した。一日の酸素投与量の合計は約一五〇〇リットルであった。

(七) 同月二九日午前一時四五分ころ、糖液二ミリリットルを与えた。啼泣が強かった。午前五時一五分にも糖液二ミリリットルを与えた。午前九時二〇分ころは、啼泣が強く、四肢の運動が活発であった。午後二時ころ、糖液二ミリリットルを与えた。啼泣が強かったが、嘔吐はなかった。午後五時ころ、糖液を二・五ミリリットルに増量して与えた。四肢の運動が活発で、嘔吐はなかった。二九日は、あと二回糖液二・五ミリリットルずつ与えたが、嘔吐はなかった。同日の酸素は、平均して毎分〇・五リットル位の量を連続投与し、授乳時などにチアノーゼ予防のため増量して投与した。一日の酸素投与量の合計は約一〇〇〇リットルであった。

(八) 同月三〇日は、午前一時二五分ころと午前七時ころと午前九時二〇分ころに、それぞれ糖液二五ミリリットルずつを与えた。午後一時一五分ころからミルクも与えることになった。ミルク三ミリリットルと糖液一ミリリットルを与えた。啼泣し、四肢の運動が活発であった。午後五時二〇分にも同量を与えた。午後九時五〇分にはミルクを一ミリリットル増量して与えた。いずれのときも啼泣し、四肢の運動が活発であった。三〇日の酵素投与の方法は前日と同じであった。一日の酸素投与量の合計は約一〇〇〇リットルである。

(九) 同月三一日は、午前二時と午前六時三〇分と午前一〇時四〇分に、それぞれミルク四ミリリットルと糖液一ミリリットルずつを与えた。いずれの際も啼泣し、四肢の運動が活発であった。午前一〇時四〇分の計測では体重は一一二〇グラムであった。午後零時一五分に栄養カテーテルを入れ直した。午後二時四〇分と、同六時二五分に、それぞれミルク四ミリリットルと糖液一ミリリットルずつを与えた。午後一〇時三〇分にミルク四ミリリットルと糖液一ミリリットルを与えた。三一日の酸素投与の方法も同月二九日と同じであった。一日の酸素投与量の合計は約一〇〇〇リットルである。

(一〇) 昭和四六年一月一日は、午前中三回、それぞれミルク四ミリリットルと糖液一ミリリットルずつを与えた。午後零時五〇分、午後四時、午後八時には、更にミルクを一ミリリットル増量して、それぞれミルク五ミリリットルと糖液一ミリリットルずつを与えた。午後の哺乳の際は、いずれも四肢の運動が活発であった。一日の酸素投与量は合計約五〇〇リットルである。授乳時などに間欠的に毎分一リットル位の量を投与したが、連続的な投与はしなかった。

(一一) 同月二日は、午前中に三回、それぞれミルク五ミリリットルと糖液一ミリリットルずつを与えた。午後はミルク六ミリリットルと糖液一ミリリットルずつを三回与えた。二日の酸素投与は、前日と同じ用い方で、合計約五〇〇リットルを投与した。この日で酸素投与を打ち切った。

(一二) 原告秋夫は、同年二月二六日まで保育器に収容されていた。その間、特に症状が悪化することはなく、ほぼ毎日四肢の運動が活発であった。栄養補給量も次第に増加した。昭和四六年一月三日午後にはミルクの量が一回七ミリリットルにし、一月四日には一回八ミリリットルにするなどほぼ毎日のように増量した。その経過の概略は、一回あたりのミルクの量でみると、一月五日は一〇ミリリットル、一月七日は一一ミリリットル、一月八日は一二ミリリットルにした後、午後に一三ミリリットル、夜に一四ミリリットル、一月九日は一五ミリリットルにした後、午後に一八ミリリットル、一月一〇日は朝一九ミリリットルにし、午後には二〇ミリリットル、一月一三日は午後二二ミリリットルないし二三ミリリットル、一月一四日は二五ミリリットル、一月一五日は二六ミリリットル、一月一六日は二七ミリリットルないし二八ミリリットル、一月一八日は三〇ミリリットル、一月一九日は三五ミリリットルと増加している。一日の授乳回数は昭和四六年一月中旬までは七回ないし八回、それ以降は六回ないし七回のことが多かった。体重は昭和四六年一月七日に一〇〇〇グラムにまで減少した後、増加し始めた。一月一五日は一一五〇グラム、一月一七日に一二〇〇グラム、一月二〇日に一二五〇グラム、一月二三日に一三一〇グラムとなって生下時体重に回復した。更に、同年一月二五日に一三四〇グラム、同月二六日に一三九〇グラム、同年二月一日に一四七〇グラム、同月三日に一五一〇グラム、同月七日に一六一〇グラム、同月八日に一七三〇グラム、同月一三日に一八二〇グラム、同月一四日に一九一〇グラム、同月一九日に二〇四〇グラム、同月二一日に二一〇〇グラムと増加した。保育器から出た同月二六日には二二六〇グラムであった。

(一三) 保育器から出た後、原告秋夫の体重は、同年三月一日に二五〇〇グラム、同月三日に二六〇〇グラムと増加した。同日の測定では、頭囲三二センチメートル、胸囲三〇センチメートル、腹囲二七センチメートル、身長四五・五センチメートルであった。同年三月九日、体重二八五〇グラムで退院した。

(一四) 原告春夫及び原告夏子は、退院前の昭和四六年二月下旬ころ、原告秋夫のいわゆる黒目の部分が下の方に落ちて白目になり、また目黒部分が不安定であることに気付いた。そこで原告春夫は、退院の際、被告横尾に原告秋夫の目が不安定なのではないかと尋ねた。被告横尾は、脳の関係でそうなっているので今後の成長過程を観察する必要がある旨答えたのみであった。同年三月一七日に横尾病院で検診があった。北海道大学から来ていた吉岡医師が検診を担当した。原告秋夫の目のことを話すと、同医師は、北海道大学医学部付属病院の眼科を紹介した。同病院で受診すると未熟児網膜症で失明しており手当の方法がないと診断された。更に国立小児病院の植村恭夫医師のことを聞き、上京して診察を受けたが、同様の診断であった。

2  右に認定したごとき原告秋夫の視力障害発生に至る経緯と前記第一、四、2において認定、説示したとおりの本症の要因、発生機序、臨床経過に関する現在の知見を総合すると、原告秋夫は網膜の未熟性を素因とし、酸素の投与を誘因として未熟児網膜症に罹患し、前記認定のとおりの視力障害を負うに至ったことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

五  被告横尾の責任原因について

1  医師の一般的注意義務の内容は、前記第一、五、1の説示のとおりである。

2  横尾病院の具体的医療環境

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

横尾病院は、被告横尾が経営する産科・婦人科の病院である。被告横尾は、昭和二一年に北海道大学医学部を卒業し、インターンを経て、昭和二二年に医師免許を取得した。その後北海道大学の産婦人科分娩室主任として勤務した。昭和二七年に横尾産婦人科診療所の名称で開業した。昭和四二年、肩書地に移転して横尾病院を開設した。

同病院で常時診療に従事していた医師は被告横尾一人であった。当時北海道大学医学部小児科助教授であった吉岡医師が非常勤の医師として勤務していた。同医師は、毎月二回、横尾病院において、育児相談と乳幼児検診をしたほか、入院中の新生児の回診をしていた。他に手術を行う際には北海道大学医学部から麻酔医、手術助手を勤める医師が応援に来ていた。看護婦は一五、六名位であった。昼間は一名ないし二名の看護婦が入院中の新生児の看護を担当した。夜間は二名の看護婦が当直し、入院中の新生児の看護を担当した。当時、横尾病院のベッド数は三六であり、保育器は二台あった。

被告横尾は、原告秋夫の保育より前に約二〇〇人位の未熟児を取り扱った経験があった(ただし、原告秋夫の保育前に、一五〇〇グラム以下の未熟児の生存例は経験がなかった。)。本症については、その存在は知っていたが、それまで自ら扱った児に本症が発症した経験はなかった。当時、日本産婦人科学会に所属していた。

以上認定したところによれば、被告横尾は、相当の経験を積んだ産科・婦人科医として当時の一般的医療水準の内容となっている知見を有すべきであり、また横尾病院には右一般的医療水準に適合する措置が可能な体制が存したものと認められる。

3  被告横尾の義務違反について

(一) 早産防止違反について

《証拠省略》を総合すると、昭和四五年当時の頸管無力症に関する臨床の実践における医学水準は、おおよそ次のとおりであったと認められ、この認定に反する証拠はない。

(1) 頸管無力症とは、子宮頸管、ことに内子宮口が無力状拡大し、主として妊娠中期・末期に妊娠が維持できなくなり、流早産をきたすものをいう。妊娠中期及び後期の流早産、特に習慣性流早産の原因の二〇パーセントないし五〇パーセントをしめる、といわれている。したがって、習慣性流早産があった場合には、通常頸管無力症を疑うことになる。

(2) ところで、習慣性流早産の定義については、流早産を三回以上繰り返すものとする学説と、流早産を二回以上繰り返すものとする学説とがある。早期の診断・治療を重視する立場からは、二回以上の流早産を繰り返すものを習慣性流早産と定義することになる。

(3) 頸管無力症の診断は、非妊娠時に子宮卵管造影法による内子宮口の拡大や内診等によって行われる。非妊娠時に右のような診断が行われるのは、頻回の自然流早産の結果頸管無力症が強く疑われる場合か、前回の流早産が典型的な頸管無力症型のものであった場合である。通常は、妊娠中期に無症候性に(特に出血や強い痛みを伴わないで)子宮頸管が開大し、陣痛のないまま胎胞形成を来たし、放置すれば破水・胎児娩出となるような流早産形式をとる場合に本症を強く疑うことになる。

(4) 頸管無力症の治療方法は、頸管縫縮術が最も有効である。右手術の時期は、妊娠四か月ころ、胎児の心音を確認して行うのが最も成功率が高いとされている。なお、手術の前後にそれぞれ一〇日間程度の入院安静を保つべきである。妊娠八か月ころに頸管縫縮術を行っても成功率は低い。

(5) 頸管縫縮術は、頸管の異常し緩による習慣性流産に対する手術であり、一般の流早産の予防治療とはなりえない。右手術によって、子宮動脈の損傷、刺激による陣痛の発来、縫縮糸による頸管の切断などの副作用が起こるおそれもあるので、頸管縫縮術は慎重に実施されるべきである。

右認定のとおりの医学水準及び鑑定人橋本正淑の鑑定結果に照らして、前記第二、四、1で認定したとおりの原告啓之を出産するに至るまでの経緯を検討すると、次のようなことが指摘できる。

(6) 原告夏子は、胞状奇胎を排除するための人工中絶を含めて三回の人工中絶手術を受けているが、自然流産は昭和四三年一二月に経験したのみであるから、原告秋夫を妊娠した時点において、習慣性流早産、すなわち頸管無力症を当然に疑うべきであった、とはいえないこと

(7) 昭和四三年一二月の自然流産の際にも、昭和四四年七月末の人工中絶の際にも、頸管無力症を疑わせる症状があった様子をうかがわせる証拠はないこと

(8) 原告秋夫を妊娠中に頸管無力症を疑わせる症状があったことをうかがわせる証拠はないし、カルテにも頸管無力症を疑わせる記載は見当らないこと

(9) 昭和四五年一二月一五日及び同月二三日ころにも頸管無力症を疑わせる症状及びカルテ上の記載はない(仮に、この時点において頸管無力症と診断できたとしても、頸管縫縮手術をすべき法律上の義務があった、とは認められない。)こと

右の事項を総合すると、被告横尾が、原告夏子を頸管無力症と診断しながら、あるいは過失により原告夏子の頸管無力症を見逃し、適宜に早産防止の処置である頸管縫縮手術をしなかった、との心証を得ることはできない。

なお、《証拠省略》によると、原告夏子は、第二子及び第三子については、頸管無力症の疑いがあるとしてそれぞれ頸管縫縮術を受け、昭和五〇年八月八日に体重二六七四グラムの女児を分娩し、昭和五五年五月五日に体重二九四五グラムの男児を分娩していることが認められるが、このような原告秋夫を早産した(すなわち、流早産を二回以上経験した)後の診断及び処置をもって、原告秋夫を妊娠中にも同様な診断及び処置が可能であったものと推認することはできない。また、原告乙山春夫は、昭和四五年四月ころ被告横尾から受胎制限をしなくてもよいといわれた際、妊娠四か月位の時期に縫縮術を実施する旨聞かされ、また、昭和四五年八月ころの定期検診で心音を聞いた際、被告横尾が「そろそろしばらなければならない。」と述べた旨供述する。しかしながら、昭和四五年四月は原告秋夫を懐妊する以前の時期であり、かつ当時、被告横尾が原告夏子を頸管無力症と診断していたとうかがわせる証拠は他になく、昭和四五年八月当時についても原告夏子に頸管無力症を疑わせる症状の存在や、カルテ上に頸管無力症を疑わせる記載がないことからすれば、右原告乙山春夫の右の供述のみをもって、直ちに頸管縫縮術をしなかった被告横尾の処置が義務違反であるとまで認めることはできない。

他に、被告横尾が早産防止義務に違反したことを認めるに足る証拠はない。

(二) 転医義務違反について

第二、五、2においてすでに認定した被告横尾の経験・経歴及び横尾病院の設備などに照らせば、被告横尾の未熟児保育の経験及び病院としての未熟児保育の施設の両面からみても、出生直後の不安定な極小未熟児を移動すべき状況にあったとは認められないから、被告横尾には、原告秋夫の出生後直ちに国立札幌病院ないし北大病院に同人を移送すべき法律上の義務があったものとは認められず、他に、これを認めるに足る証拠はない。

(三) 全身管理義務違反について

以下のとおり、被告横尾に全身管理義務違反があったものとは認められない。

(1)  注意深い全身の観察の懈怠

原告秋夫に関するカルテには、昭和四五年一二月五日の記載しかなく、「以下別表」と書き込まれている。また、《証拠省略》(温度表及び看護日誌)によれば、温度表には原告秋夫が保育器を出た後の体温の記載しかなく、保育器収容中の体温、更に脈拍、呼吸数の記載がなく、看護日誌にも体温、脈拍、呼吸数の記載がみられない(ただし、昭和四六年一月一〇日に器内温度が下降する傾向があるので注意を要する趣旨の記載がある。)。しかしながら、前記第二、四、1で認定したとおりの原告秋夫の養育・成長状況などのほか、《証拠省略》を総合すると、被告横尾としても、原告秋夫の出生時の体重が一三〇〇グラムしかなかったために、通常の新生児の場合以上に、順調に成育するかどうか不安に思っていたので、保育器収容後、毎日診察するのはもちろん、折にふれて新生児室に赴いて様子を見ており、看護婦に二四時間体制で観察をするように命じていたこと、そして、指示した観察の内容は、体動、体色、啼泣、チアノーゼの有無、部位、哺乳量と哺乳状態、嘔吐、排便、排尿、体重等についてであり、観察の結果は一日を六回ないし八回位に分けて日誌に記入させ、随時閲覧していたこと、また、必要に応じて口頭で観察結果を報告させ、体温、呼吸数、脈拍数の観察も指示していたこと、更に前記のごとく原告秋夫の入院時のカルテには、昭和四五年一二月二五日の記載があるだけで、「以下別表」として、看護婦の日誌と温度表を引用している点についても、一日に何回も診察をしているため、その都度カルテに記入するのは手数なため、詳細な観察結果を記入した日誌を引用する形にしていたこと(したがって、右カルテの記載のみで被告横尾が原告秋夫の診察をしていないとは到底いえないこと)が認められる。また、前叙のとおり温度表には、原告秋夫が保育器を出た後の期間についての体温の記載があるだけで、保育器収容中の体温の記載がなく、また、呼吸数、脈拍については保育器を出た後も含めて数値の記載がないとしても、被告横尾が看護婦に対して呼吸数、体温、脈拍の測定を指示していたことは前記認定のとおりであり、日誌中には保育器内温度に関する記載があるのであるから、右の温度表の記載内容から直ちに呼吸、体温面の観察が何らなされていなかったものとは認められない。

被告横尾のなした前記のごとき観察内容、方法は、鑑定人多田啓也の鑑定の結果に徴しても、当時の観察義務の内容(第一、五、2(一)(1)(ウ))に適合しており、この点の義務違反は存しないものというべきである。

(2)  体温管理の不適切

原告秋夫の体温に関する記載は保育器を出た後のものしかないことは、すでに認定したとおりである。しかしながら、前記第二、四、1で認定した原告秋夫の養育・成長状況、前項記載の被告横尾の観察内容などのほか、鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らしても、被告横尾に、原告秋夫の体温管理に関して法的義務違反があったことを認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

(3)  酸素管理の不適切

すでに、説示した昭和四五、六年当時の酸素管理に関する医学水準及び鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らすと、前記第二、四、1で認定した原告秋夫の体重、チアノーゼの発現状態及び哺乳等の発育状況のもとにあっては、被告横尾に酸素管理について義務違反があったものとは認められない。すなわち、被告横尾は、原告秋夫が出生した昭和四五年一二月二五日に毎分三リットル(《証拠省略》によれば、毎分三リットルの酸素を投与すると、保育器内の酸素濃度は三三パーセントないし三七パーセントになる、と認められる。)の酸素を投与し、翌二六日から同月二七日午前一〇時三〇分まで毎分平均約一リットル(《証拠省略》によると、器内の酸素濃度は二四パーセントないし二五パーセントになる、と認められる。)の酸素を投与し、同日酸素投与を一時停止したが、再び同量の酸素投与を始め、同月二八日まで同量の酸素を投与し、同月二九日から同月三一日までは毎分平均約〇・五リットルの酸素を投与し、授乳時などにチアノーゼ防止のために増量し、昭和四六年一月一日からは酸素の連続投与をやめ授乳時などに間欠的に毎分約一リットル位の酸素を投与し、翌二日も同様の方法で酸素を投与し、同日をもって酸素投与を中止したことは、すでに第二、四、1(三)ないし(一一)において認定したとおりであるところ、右の被告横尾による酸素管理状況は、すでに認定(第一、五、2(2)(カ))したとおりの当時の臨床医学の実践における医学水準に照らしても、これに違反するものとは到底認められない。原告らの主張に沿う《証拠省略》は、すでに認定した当時の医学水準に照らし、採用できない。

この点に関し、原告らは、被告横尾において、酸素濃度測定や動脈血中酸素分圧の測定をしなかったことをもって酸素管理義務違反がある旨主張しているが、酸素濃度を測定器をもって正確に測定することや動脈血中酸素分圧を測定することを要求することは、実践の場における当時の医学水準に照らしても、無理なことであったというべきであるから、右各測定をしなかったことをもって、酸素管理義務に違反したものと認めることはできない。

他に、被告横尾による酸素の管理が当時の医学水準に反するものであったことを認めるに足る証拠はない。

(4)  栄養管理の不適切

前記説示(第一、五、2(一)(ウ))の未熟児の栄養管理に関する医学水準及び鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らし、前記第二、四、1で認定した原告秋夫の体重の変動及びこれに対するミルク・糖液の補給状況をもって、被告横尾の原告秋夫に対する栄養管理に関する義務違反があったものと認めることはできない。原告らの主張に沿う《証拠省略》は、採用できない。

(四) 眼底検査義務違反及び治療義務違反について

昭和四五、六年当時、本症の早期発見・早期治療のため眼底検査が必要であること及び本症の治療方法として光凝固法が有効であることが、臨床医学の実践における医療水準として確立されていたものとは認められないことは、すでに説示したとおりである。

したがって、眼底検査及び光凝固法を実施しなかったこと及び右検査・治療のため転医させなかったことをもって、被告横尾の義務違反である、とはいえない。

(五) 説明義務違反について

担当医師について、眼底検査及び光凝固法に関する説明をすべき法的義務が肯定されるためには、眼底検査及び光凝固法の実施が医学水準として確立していることが前提となると解されるところ、昭和四五、六年当時眼底検査及び光凝固法の実施が医学水準として確立していたものとは認められないことは、すでに説示したとおりであるから、被告横尾に右の事項について説明をなすべき義務があったものとはいえない。

したがって、原告秋夫らのこの点の主張は採用できない。

4 被告横尾の債務不履行責任について

被告横尾に原告秋夫ら主張のような義務違反を認めることができないことは、前記3で説示したとおりであるから、原告秋夫、原告春夫及び原告夏子の被告横尾に対する債務不履行を理由とする損害賠償の請求は、いずれも理由がない。

5 被告横尾の不法行為責任について

同様に、原告秋夫、原告春夫及び原告夏子の被告横尾の義務違反を前提とする同人に対する不法行為を理由とする損害賠償の請求は、いずれも理由がない。

六 よって、原告秋夫、原告春夫及び原告夏子の被告横尾に対する各請求は、いずれも理由がない。

第三原告梅子、原告松夫及び原告竹子の被告全社連に対する各請求関係

一  請求の原因1(三)及び(六)の事実(当事者)は、当事者間に争いがない。

二  請求の原因2(三)の事実(診療契約の成立)は、当事者間に争いがない。

三  請求の原因3(三)の事実(原告梅子の視力障害の発生)のうち、原告梅子は昭和四七年五月二二日に札幌市内のにいだ産婦人科で出生したが、在胎期間三一週で、生下時体重が一三〇〇グラムの未熟児であったこと、原告梅子は、右同日、北海道社会保険中央病院に転院し、同日から同年七月四日まで保育器内に収容されたこと、同年五月二二日から同年六月二日までの間酸素投与を受けたこと、投与量が当初毎分二リットルであったこと、同年五月二三日には毎分一リットルにされたこと、同月二七日からは毎分〇・五リットルとなったこと、同年七月二三日体重二八六〇グラムで退院したこと及び原告梅子が同年一一月二一日に北海道社会保険中央病院眼科で検査を受けたことは、いずれも当事者間に争いがない。

《証拠省略》を総合すると、原告竹子が、昭和四七年七月二五日ころ原告梅子の目の異常に気付いたこと、同年一一月二一日原告梅子が北海道社会保険中央病院眼科で検査を受けた際全盲と診断されたこと及び原告梅子は昭和四八年三月五日、札幌医科大学附属病院で医師相沢芙束によって本症と診断され、その視力が左右とも〇で明暗弁程度であることが認められる。

四  そこで、原告梅子の視力障害発生の原因について検討する。

1  原告梅子の視力障害発生に至る経緯

前項で認定した各事実のほか、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一) 原告竹子は、昭和四六年一二月二二日、にいだ産婦人科において妊娠を診断された。以後約一か月に一回の割合で妊婦の定期検診を受けていた。出産予定日(昭和四七年七月二二日)の二か月前の昭和四七年五月二二日午前一時ころ陣痛が始まった。同日午前七時ころに破水した。同日午前七時二一分、にいだ産婦人科で分娩した。児(原告梅子)は在胎三一週、生下時体重一三〇〇グラムの女児であった。

(二) 原告梅子は、昭和四七年五月二二日午後一時五〇分、北海道社会保険中央病院小児科に入院した。同科での主治医は藤田光江であった(藤田医師が担当医であったことは、当事者間に争いがない。)。入院時、原告梅子は体重一三〇〇グラムであった。体格は小さく、骨格は弱く、栄養は不良であった。皮膚は暗赤色であった。四肢のチアノーゼが著明であった。全身の冷感が強く、体温が低すぎて測定できなかった。呼吸は規則的であったが軽度の剣状突起部の陥没呼吸が見られた。足底を刺激しても啼泣せず、断続的に弱声で啼泣することがある程度であった。低血糖症状と診断された。低血糖の補正・維持のため、点滴を行った。保育器に収容して、毎分二リットルの酸素を投与した。午後二時三〇分には、全身の冷感が持続し、体温上昇が見られなかった。剣状突起部の陥没呼吸が著明であった。午後三時四〇分にも剣状突起部の陥没呼吸があった。この時チアノーゼが増強していた。午後六時三〇分になって、原告梅子の体温が計れた。三六・二度であった。陥没呼吸が見られた。器内酸素濃度を測定した。測定値は四〇パーセントを示した。保育器内の温度は三六・五度であった。午後七時二〇分には、南部春生医師が診察した。チアノーゼの出現を認めた。午後七時三〇分、二段式呼吸があり、四肢と口囲にチアノーゼがあった。午後九時一〇分と同五〇分には二段式呼吸と陥没呼吸が見られた。午後九時五〇分の酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。午後一〇時五〇分には三秒位の周期性呼吸が見られた。午後一一時二〇分、南部医師の指示で保育器内の温度を三四度に調節した。

(三) 五月二三日午前零時一五分の原告梅子の体温は、三七度であった。陥没呼吸があった。投与する酸素量を毎分一リットルに減らした。午前一時三五分には、体温三六・四度であった。陥没呼吸は軽度であったが、二段式呼吸があり、浅速にして不規則であった。チアノーゼが鼻口囲、四肢末端ほかにあった。酸素濃度測定値は三五パーセントを示した。保育器内の温度は三四・五度、湿度は八七パーセントであった。午前三時二〇分と午前四時二五分、午前五時四五分のいずれにおいても陥没呼吸が見られた。午前五時四五分の体温は三五・五度であった。体温が下降気味で、冷感がやや強くなったので、保育器内の温度を三三・五度から三五度にあげた。酸素濃度の測定値は三五パーセントであった。午前七時五〇分には体温が三六・一度に上昇した。保育器内の温度は三五度であった。陥没呼吸があった。午前九時二〇分には、呼吸が不規則で軽度の陥没呼吸があった。チアノーゼが鼻口囲、手掌、足底に見られた。黄疸が認められた。保育器内の温度は三四・五度、湿度は八〇パーセントであった。酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。午前一一時と午前一一時四五分にも陥没呼吸があったが、呼吸は規則的であった。午後二時には呼吸は不規則で、軽度の陥没呼吸があった。体温は三七度であった。午後四時一〇分、陥没呼吸がやや強く見られた。体温は三六・一度であった。保育器内の温度が三四度で、原告梅子の四肢に冷感があった。保育器内の温度を三六度にあげた。午後四時一五分、胸部撮影のため、原告梅子を保育器から出した。顔面に軽いチアノーゼがあらわれた。午後六時には剣状突起と肋間の陥没呼吸があり、二段式呼吸があった。チアノーゼが鼻、口囲、四肢爪、足底、手掌にあった。体温は三六・五度であった。保育器内の温度は三六・五度であった。酸素濃度の測定値は三七パーセントを示した。その後吸気時に二回位剣状突起部の陥没呼吸が続いた。午後一〇時一〇分には陥没呼吸が増強気味で、二段式呼吸があった。四肢の冷感は軽度であった。体温は三六・六度であった。午後二時四〇分から、嘔吐があれば直ちに中止するとの指示のもとに哺乳を始めた。この日、黄疸が認められた。

(四) 五月二四日午前一時、原告梅子には、剣状突起と肋間の陥没呼吸があった。全身が橙黄色気味であった。チアノーゼが四肢に軽く残っていた。体温は三六・六度であった。酸素濃度の測定値は三七パーセントを示した。午前八時には酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。黄疸が増強気味であった。午前八時三〇分には体温は三六・二度であった。陥没呼吸と二段式呼吸があり、チアノーゼも残っていた。黄疸が増強気味で、全身橙黄色を呈していた。酸素濃度の測定値は三〇パーセントを示した。午前九時にビリルビン検査をした。直接ビリルビン三・二ミリグラム、間接ビリルビン八・四ミリグラム、総ビリルビン一一・六ミリグラムであった。午前一〇時五〇分にも陥没呼吸が続いていた。全身の橙黄色が著明となった。高間接ビリルビン血症と診断して、午後三時五七分から、南部医師が交換輸血手術をした。上原医師が助手をつとめた。一八〇ミリリットルを脱血し、一八五ミリリットルを輸血した。手術中は毎分二リットルの酸素を投与した。午後五時五六分に手術を終え、午後六時五分に酸素投与を中止した。午後六時二〇分、毎分一リットルで酸素の投与を再開した。二段式呼吸が見られた。体温は三六度であった。午後七時五〇分、四肢冷感のため、保育器の温度を二九度から三〇度にあげた。午後一〇時一五分陥没呼吸が増強気味でやや不規則であった。体温は三五・二度であった。全身冷感があった。保育器の温度を三三度とした。チアノーゼが鼻、口囲、四肢末端にあった。黄疸が見られた。

(五) 五月二五日午前零時の原告梅子の体温は三五・一度であった。体温の上昇が見られなかった。保育器の温度を三三度から三五度にあげた。酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。陥没呼吸が持続した。一分間に三回二段式呼吸があった。午前一時一五分の体温は三六度であった。保育器の温度は三五度であった。陥没呼吸があった。午前二時五〇分にも陥没呼吸を持続していた。午前八時一五分に酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。陥没呼吸があった。午前八時五〇分、体温は三六度であった。陥没呼吸が見られた。四肢にチアノーゼがあったが、増強しなかった。黄疸があった。午前一〇時四五分、藤田医師の指示で黄疸治療のため光線療法を開始した。午後一時二〇分の体温は三六度であった。陥没呼吸があった。チアノーゼの増強は見られなかった。黄疸は緩和気味となった。午後六時二五分には陥没呼吸がやや強く見られた。二段式呼吸があった。黄疸はかなり軽減した。チアノーゼが口囲と足底にあった。体温は三六・八度で、保育器内の温度は三二・五度であった。酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。午後七時には陥没呼吸が見られた。午後九時四〇分に一五秒の無呼吸状態が生じた。光線療法を中止した。全身に軽くチアノーゼが出現した。徐々に消失し、四肢末端と口囲だけになった。三秒位の周期性呼吸があった。陥没呼吸は軽度であったが、呼吸が不規則であった。体温は三七・五度であった。保育器の温度を三〇度に調節した。午後一一時五〇分の体温は三六・二度であった。保育器内の温度が二九・五度で、四肢に冷感があった。保育器の温度を三二度にあげて様子を見ることにした。チアノーゼがやや増強気味であった。二段式呼吸があった。

(六) 五月二六日午前一時、原告梅子に陥没呼吸が見られた。呼吸不規則であった。体温は三五・八度であった。四肢に軽い冷感があったが、保育器内の温度は三二度であった。チアノーゼの増強はなかった。午前五時五〇分、体温は三五・四度であった。陥没呼吸があった。四肢の軽い冷感は続いていたが、保育器内の温度は三二度であった。チアノーゼの増強はなかった。午前九時三〇分には陥没呼吸は軽度であったものの、啼泣により呼吸が不規則であった。チアノーゼがあった。体温は三五・四度であった。四肢の冷感があった。保育器の温度は三二度であったが、三四度まであげて様子を観察した。午前一〇時、南部及び藤田両医師の回診時に無呼吸様の症状があり、チアノーゼがあらわれた。南部医師が胸部を刺激した。自発的呼吸が見られた。午後一時一〇分には、陥没呼吸があり、呼吸不規則であった。体温は三五・二度であった。四肢末端に冷感があった。保育器内の温度が三一度であったが、三五度まであげて様子を見た。酸素濃度の測定値は三〇パーセントを示した。午後一時三〇分、南部医師が血糖値を測定した。午後六時一〇分には、陥没呼吸があり、呼吸不規則であった。鼻口囲、四肢末端にチアノーゼが見えた。体温は三六度であった。酸素濃度の測定値は三〇パーセントを示した。午前一〇時二〇分の体温は三五・九度であった。チアノーゼの増強はなかった。黄疸が見られた。四肢末端に冷感があり、保育器の温度を三三度から三五度に調節した。酸素濃度の測定値は三〇パーセントであった。

(七) 五月二七日午前一時、原告梅子には陥没呼吸があり、チアノーゼが口囲、足底、手にあった。体温は三六・三度であった。午前二時三〇分、保育器の温度を三六度から三四度に調節した。午前八時二〇分には剣状突起部と肋間に陥没呼吸が著明に見られた。午前九時の体温は三五・七度であった。陥没呼吸が見られた。鼻、口囲、手掌、足底にチアノーゼがあった。酸素濃度の測定値は三〇パーセントを示した。午前一〇時一五分、保育器を取り換えた。酸素一リットルの投与を続けた。午前一一時四五分の体温は三六・一度であった。陥没呼吸が見られた。鼻口囲、四肢末端に軽度のチアノーゼがあった。四肢末端に冷感があった。保育器内の温度は三三・五度で、様子を観察することにした。酸素濃度を計測したところ、四五パーセントであった。看護婦は、保育器を一部開放して、藤田医師に事情を上申した。同医師は、酸素を止めながら濃度を四〇パーセントに保つよう指示した。午後零時二五分には、肋間と剣状突起部の陥没があり、呼吸がやや不規則であった。酸素濃度が四一パーセントと計測されたので、酸素投与を一時中止して様子を見た。午後零時四五分に、酸素濃度の測定値が三一パーセントを示したので、毎分一リットルの酸素投与を再開した。午後一時二〇分には、陥没呼吸があった。体温は三六・二度であった。チアノーゼが鼻口囲、四肢にあった。器内酸素濃度の測定値が四一パーセントを示していたので酸素投与を中止した。午後一時五〇分、酸素投与を再開した。毎分一リットルずつ投与した。午後三時には、酸素濃度の測定値が四六パーセントを示したので酸素投与を中止した。このとき陥没呼吸があった。午後三時三五分に毎分一リットルで酸素投与を開始した。午後四時一五分に酸素濃度の測定値が四五パーセントを示したので、酸素投与量を毎分〇・五リットルに減らした。午後四時三五分に酸素濃度の測定値が四二パーセントを示したため酸素投与を一時中止した。午後五時には陥没呼吸があった。酸素濃度の測定値が三〇パーセント弱を示したので、毎分一リットルの酸素投与を開始した。午後六時一五分には陥没呼吸と鼻、口囲、四肢末端、爪にチアノーゼがあった。黄疸もあった。体温は三六・四度であった。四肢末端に軽い冷感があったので、保育器内の温度を三三・五度から三四・五度にした。酸素濃度の測定値が四六パーセントに上昇したので酸素投与を一時中止した。午後六時三〇分に、酸素濃度の測定値が三三パーセントを示したので、毎分〇・五リットルの酸素投与を開始した。午後七時三〇分には酸素濃度の測定値が三九パーセントを示した。午後八時一〇分に酸素濃度の測定値が四〇パーセントを示したので酸素投与を中止した。午後八時四五分に酸素濃度の測定値が二五パーセントを示したので毎分〇・五リットルの酸素投与を始めた(以後、毎分〇・五リットルの投与を続けた。)。午後九時一五分の酸素濃度の測定値は三三パーセントを示した。午後一〇時一〇分の体温は三六・四度であった。陥没呼吸があったが、規則的であった。四肢末端の冷感は軽減した。保育器内の温度は三四度であった。酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。午後一一時五〇分の酸素濃度の測定値は三七パーセントを示した。この日の体重は一二二〇グラムであった。

(八) 五月二八日午前一時、原告梅子の体温は三六・三度であった。剣状突起部と肋間の陥没があった。午前二時三〇分及び午前八時一五分の酸素濃度の測定値は三四パーセントを示した。午前五時三〇分と午前八時一五分、午前九時のいずれの観察時においても陥没呼吸があった。午前九時には四肢爪、足底、手掌、鼻口囲にチアノーゼがあった。体温は三六・六度であった。保育器内の温度は三二・五度であった。午後零時一五分の酸素濃度の測定値は三五パーセントを示した。午後一時一〇分、陥没呼吸が見られた。チアノーゼの増強はなかった。体温は三六・四度であった。保育器の温度は三四度であった。酸素濃度の測定値は三七パーセントを示した。午後六時二五分には、陥没呼吸とともにチアノーゼが出ていた。体温は三六・二度で、保育器内の温度は三三・五度であった。酸素濃度の測定値は三八パーセントを示した。この日の体重は一二一〇グラムである。

(九) 五月二九日午前一時、原告梅子には陥没呼吸と四肢末端のチアノーゼが出ていた。体温は三六・八度であった。保育器内の温度は三二・五度であった。器内酸素濃度の測定値は三七パーセントを示した。午前五時五〇分にも陥没呼吸と二段式呼吸があった。酸素濃度の測定値は三六パーセントないし三七パーセントを示した。午前九時の測定によれば体重は一二〇〇グラムである。鼻口囲、四肢末端、爪にチアノーゼが残っていた。体温は三六・六度で、保育器内の温度は三四度であった。酸素濃度の測定値は三九パーセントであった。午後零時三五分の酸素濃度の測定値は約三八パーセントを示した。陥没呼吸が見られた。午後四時一〇分に光線療法を開始した。午後六時一五分に陥没呼吸とチアノーゼがあった。酸素濃度の測定値は、三七パーセントを示した。

(一〇) 五月三〇日午前一時、原告梅子には陥没呼吸と鼻口囲と四肢末端のチアノーゼがあった。体温は三六・五度であった(以後、体温はほぼ三六度台であった。)。酸素濃度の測定値は三八パーセントを示した。右陥没呼吸とチアノーゼは午後六時三〇分と午後九時一五分、午後一〇時一〇分にも見られた。この日の体重は一二二〇グラムであった。

(一一) 五月三一日は、午前一時と午後六時二五分に陥没呼吸と足底、手掌などに軽いチアノーゼが見られた。酸素濃度の測定値は三〇パーセントないし三八パーセントを示した。

(一二) 六月一日は、やはり午前一時と午前九時一〇分に軽いチアノーゼと陥没呼吸があった。陥没呼吸は、同日の他の観察時にも見られた。酸素濃度の測定値は二八パーセントないし三八パーセントを示した。

(一三) 六月二日午前九時三五分に陥没呼吸とごく軽いチアノーゼがあった。午前五時四〇分の測定では酸素濃度の測定値は三八パーセントであった。午前一〇時、回診にきた医師の指示で酸素投与を中止した。午後六時、陥没呼吸が見られた。四肢末端、爪に軽いチアノーゼがあったが、増強することはなかった。この日の体重は一二六〇グラムであった。

(一四) その後、原告梅子は、同年七月四日に体重一九四〇グラムとなり、保育器から出された。そして同月二三日、体重二八六〇グラムで退院した。

(一五) 退院後の昭和四七年七月二五日ころ、原告竹子は、親戚から原告梅子の目に異常があるのではないかといわれた。不安になった原告竹子は、南部医師に電話して、眼科に連れて行った方が良いかと尋ねた。同医師は、同年九月一九日の乳幼児相談のときに原告梅子を連れて来るように告げたにとどまった。原告竹子は、九月一九日に原告梅子を乳幼児相談に連れて行った。南部医師に重ねて眼科に行く必要がないかと尋ねた。同医師は、徐々に視力がしっかりしてくるからとのみ答えた。

(一六) 原告松夫は、昭和四七年一一月二一日の乳幼児相談日に、風邪をひいた原告竹子に代り、原告梅子を連れて北海道社会保険中央病院を訪れた。原告梅子の目のことを尋ねた。南部医師は、原告梅子の内斜視を認め、同病院の眼科へ行くように指示した。同日、同病院の眼科で小野医師の診察を受け、水晶体後部線維増殖症が疑われ、失明していると診断された。原告梅子は、昭和四八年三月五日、札幌医科大学の医師相沢芙束により、未熟児網膜症と診断された。

2  右に認定したごとき原告梅子の視力障害発生に至る経緯と前記第一、四、2に認定、説示したとおりの本症の要因、発生機序、臨床経過に関する現在の知見を総合すると、原告梅子は網膜の未熟性を素因とし、酸素の投与を誘因として未熟児網膜症に罹患し、前記認定のとおりの視力障害を負うに至ったことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

五  被告全社連の責任原因について

1  医師の一般的注意義務の内容は、前記第一、五、1の説示のとおりである。

2  北海道社会保険中央病院の具体的医療環境

《証拠省略》によると、次の事実が認められ、これを覆すに足る証拠はない。

北海道社会保険中央病院小児科には、昭和四七年当時、医師三名が勤務していた。小児科部長は南部春生医師であり、他の二名は上原秀樹医師と藤田光江医師であった。三名は、夜間の仕事などでは互いに他の医師の担当にかかる患者をも診ることにして助け合っていた。また、南部医師は、小児科部長の立場で回診をし、子の異常状態に応じて診察をしていた。看護婦は一六名位であった。ベッド数は三六床であった。そのうち三台は一般型の保育器であった。昭和四七年当時は大体いつも満床であった。

小児科部長の南部医師は、昭和三二年に北海道大学医学部を卒業し、昭和三三年に医師免許を取得した。昭和三八年四月から北海道大学医学部助手となった。昭和三九年五月からは北海道社会保険中央病院小児科部長として勤務している。生下時体重一二〇〇グラム程度の未熟児の生存例(一二〇〇グラム程度の未熟児を取り扱ったうち、生存例は約二〇パーセント程度であった。)を、原告梅子より以前に三例ほど扱ったことがあった。扱った児が本症に罹患したという経験はなかった。日本小児科学会、新生児学会、未熟児新生児研究会に加入していた。

上原秀樹医師は、昭和四四年に北海道大学医学部を卒業して医師免許を取得した。市立小樽病院を経て、昭和四六年九月から北海道社会保険中央病院に勤務していた。

藤田光江医師は、昭和四五年に北海道大学医学部を卒業して医師免許を取得した。同大学の小児科を経て北海道社会保険中央病院に勤務していた。

以上認定したところによれば、南部、上原、藤田の各医師は、通常の小児科医として、当時の一般的医療水準の内容となっている知見を有すべきであり、また北海道社会保険中央病院には右一般的医療水準に適合する措置が可能な体制が存したものと認められる。

3  原告梅子の担当医の義務違反について

(一) 全身管理(酸素管理)義務違反について

すでに説示した昭和四七年当時の酸素管理に関する医学水準及び鑑定人多田啓也の鑑定結果に照らすと、前記第三、四、1で認定した原告梅子の体重、低血糖及び黄疸の症状、陥没呼吸等の不規則呼吸及びチアノーゼの発現状況のもとにあっては、原告梅子の担当医に酸素管理についての義務違反があったものとはいえない。すなわち、担当医は、原告梅子が北海道社会保険中央病院小児科に入院した昭和四七年五月二二日午後一時五〇分から毎分二リットル(測定した酸素濃度は四〇パーセントと三五パーセントであった。)を投与し、翌二三日からは毎分一リットルに減量した酸素(測定した酸素濃度はほぼ三五パーセントであった。)の投与を開始・継続し(同月二四日の交換輸血手術の際((約二時間))には、酸素投与量を毎分二リットルに増量した。)、同月二七日には酸素濃度計が四〇パーセントを超えたので間欠的投与にして酸素濃度を調整し、同月二八日からは毎分〇・五リットルの酸素(最高測定濃度三八パーセント)を投与し、同年六月二日午前一〇時に右酸素投与を中止したことは、前叙のとおりであるが、右担当医による酸素管理の方法もしくは内容は、当時の臨床医学の実践における医学水準に違反するものとは認められないからである。

なお、昭和四七年五月二七日には、測定された酸素濃度が四〇パーセントを超える数値を示した事実が認められることは、前叙のとおりである。その原因が測定器の故障にあったか否かについては確たる心証は得られないが、第三、四、1で認定のとおり、酸素濃度を四〇パーセントに保つため直ちに酸素投与を中止する等の調整をしているのであるから、昭和四七年五月二七日に酸素濃度の測定値が四〇パーセントを超えたことをもって、酸素管理についての義務違反があったものと認めることはできない(仮に、測定値どおりの酸素投与があったとしても、その投与期間及びその期間中の酸素濃度に照らし、右二七日に四〇パーセントを超える酸素を投与したことと本症発生との間に相当因果関係を認めることはできない。)。

更に、原告らは、原告梅子の担当医が動脈血中酸素分圧を測定しなかった旨主張する。しかしながら、動脈血中酸素分圧の測定が当時の医学水準として確定されていたとは認めることができないから、右測定をしなかったことをもって、酸素管理義務に違反したものとは認められない。

他に、原告梅子の担当医について原告梅子の全身管理(酸素管理)義務違反を認めるに足る証拠はない。

(二) 眼底検査義務違反について

昭和四七年当時、本症の早期発見及び早期治療のために眼底検査が必要であることが、臨床医学の実践における医療水準として確立されていたものとは認められないことは、すでに説示したとおりである。

したがって、眼底検査をしなかったことをもって、原告秋夫の担当医にこの点の義務違反があったものと認めることはできない。

(三) 説明義務違反について

眼底検査及び光凝固法を説明する法的義務が肯定されるのは、眼底検査及び光凝固法の実施が医学水準として確立されていることが前提となると解するのが相当であるところ、昭和四七年当時、眼底検査及び光凝固法の実施が医学水準として確立されていたものとは認めることができないことは、すでに説示したとおりであるから、原告梅子の担当医にこれらの事項について説明をなすべき義務があったものとはいえない。

したがって、原告梅子らのこの点の主張は採用できない。

4  被告全社連の債務不履行責任について

原告梅子の担当医に原告梅子ら主張のような義務違反を認めることができないのは、前記3で説示したとおりであるから、原告梅子、原告松夫及び原告竹子の被告全社連に対する債務不履行を理由とする損害賠償の請求は、いずれも理由がない。

5  被告全社連の不法行為責任について

同様に、原告梅子、原告松夫及び原告竹子の原告梅子の担当医の義務違反を前提とする被告全社連に対する使用者責任を理由とする損害賠償の請求はいずれも理由がない。

六  よって、原告梅子、原告松夫及び原告竹子の被告全社連に対する各請求は、いずれも理由がない。

第四結論

以上のとおりとすると、原告甲野一郎らの被告小樽市に対する各請求、原告乙山松夫らの被告横尾和夫に対する各請求及び原告丙川梅子らの被告全国社会保険協会連合会に対する各請求は、いずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九三条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 小林正明 裁判長裁判官舟橋定之及び裁判官合田悦三は転補のため署名捺印することができない。裁判官 小林正明)

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